障害者・患者9条の会    2009年9月5日  明治大学


■よびかけ人あいさつ=吉本哲夫さん

■記念シンポジウム
●コーディネータ=家平悟さん
社会保障の研究者の小川先生、障害児学校の先生であった松本先生、戦争によって障害者になった鈴木洋子さんにお話していただきます。
平和と、憲法9条と25条として、生存権をどうしていくのかをしっかりと訴えていかなければならない。人権を奪われてきた過去の現実を聞くと、今、そのことを自分たちの生活と結びつけていけるようなシンポジウムにしたいと思います。

●小川政亮さん(社会保障法研究者)
 
 私は、終戦のときの年を聞かれたが、そのとき25歳でした。外地に行く船がなかったので、行かなかった。
 終戦当時は三重の宇治山田にいて、そこが空襲をうけ、そのとき同時にビラがまかれて、日本が大変な状況にあることが書かれていた。
 東京も空襲で焼けて何もなかった。小さな会社で勤めていたが、戦争が終わったからとクビになった。その後、戦争から帰ってきた人たちを援助する仕事についた。
 戦前は、普通選挙と抱き合わせで治安維持法ができ、それが、天皇制と資本主義を守るということで、言論の自由も押さえられた。
 私が大学にいたとき、エンゲルスの本は図書館でも貸し出しをしない。しかも英語とドイツ語の文献も貸し出しはしないということで、図書館で読んだ記憶があります。
 戦争が終わって、自由に研究ができる、自由にものが言えると感じた。

 日本国憲法ができるときに、いろいろな案があったようですけど、その中で占領軍が一番感心したのは、憲法調査会の案だったようです。
 政府がつくった憲法案には、25条の第1項がなかったようです。しかし、憲法調査会の案にはあったようで、そうして25条はできてくるんですけど。
 戦争と生存権は両立しないことはあきらかです。
 憲法の前文で言われていることは「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」。          」
 国民主権を守るということは、平和を守るということ。欠乏は貧困の最たるものであることを、憲法の前文に書かれている。
 9条と25条が切り離せないことを、十分に確認できる。
 外国人が権利がないとはもってもほか。憲法25条でいえば、健康で文化的な生活を営む権利は、外国人ももっているのは当然。
 
 最近、生存権訴訟が行われている。生活保護の老齢加算と母子加算が廃止されている。その裁判が、全国の10か所で行われている。
 しかし、東京、広島、福岡地裁では敗訴。日本の裁判所は司法消極主義。なるべく憲法に反していないという判決を出す。
 「国会が決めた法律でなんとかなる…」などということを、立法や行政の裁量権などと言っているために、たいへんなことになってしまう。
 憲法の上に日米安保条約があるという話を聞きましたが、そういった状況であるということを考えて、9条のことを考えていかないといけないと思います。


●松本昌介さん「戦争と障害者−障害児学校の学童疎開を中心に」
 
 養護学校を退職してから10数年経ちますので、その間に障害者の学童疎開などを、自分の足をつかったり、他の人の話を聞いたりして、調べてきました。
 私たちの年代は、小・中・高も戦争体験者で学童疎開の体験者が多かったので不思議はなかったのですが、今日ここにいる人で体験者がそんなにいないことを感じました。学童疎開は6〜7年くらいの間の方なんですね。学童疎開を知らない人は多いと思います。
 昨年つくったパンフレットで、戦争中に存在したすべての東京の障害児学校のことをもうらしたもので、すごくすぐれたものであると思います。こういうことがあったんだと知ってもらう値打ちはあるものではないかと思います。

 学童疎開とは何かということですけど、大きく言えば縁故疎開と集団疎開があります。働いている父を東京において、母親と子どもたちが、母の実家の田舎に疎開するというのが縁故疎開といいます。縁故疎開というのは非常に苦しいものです。親類が一つ屋根の下に、複数の家族が住んでいる、今では考えられないようなことですが、今でも親戚と付き合いたくないような感じです。縁故疎開についてはあんまり語られていないですね。
 集団疎開は3年から6年生が一斉に行くわけです。お寺や旅館に。障害児の場合には、自分の旅館や学校で勉強する場合が多かったようです。疎開というのは、軍隊の用語で、家を壊して延焼を防ぐことを建物疎開などということもやっていた。
 障害児はどうしていたのかというと、「子どもは足でまとい」、もう一つは「次世代の戦力確保」ということでした。
 真っ先に疎開したものは、1941年に「博物館」が疎開をはじめている。それが終了したあとに子どもたちの疎開が始まっている。でも、障害児ははじめからそんな扱いを受けていたんです。

 1944年に疎開が開始されました。それでも光明学校はがまんしろと言われた。光明学校はなすすべもなく。1945年の3月に東京大空襲を見て、校長が自分で疎開先を探して1945年の5月15日に疎開しました。そして、5月25日に、空襲で校舎が焼失した。間一髪でした。
 そして、敗戦から4年後、1949年5月まで、長野の温泉にいた。戻って来ても校舎は焼けたままだったんです。校長が校舎の建築を要請した。これが一番最後まで疎開していた例となっている。

 学童疎開で亡くなった子どもは多いが、生活が大変だということで亡くなっているのは、大島藤倉学園の10名が唯一の例ではないか。

 <障害児学校の疎開の特徴>
 行政資料がほとんどなく、未解明のことが多い。そこの行政区では何もしていないので、資料などあるはずもない。
 障害児学校は一県に一校しかないケースが多いために、そこが焼けてしまうと障害児が学ぶことができなくなってしまう。

 寮母さんたちにアタックして話を聞きたいとしましたが、話してくれる人がいない。その当時、自分の青春を使ってしまったという思いがあるのではないか。苦しい生活があったのではないかと想像できる。

 <障害児者と戦争>
 肢障協がまとめた『米食い虫、非国民とののしられて』には、障害をもっている人間は生存すらできないということがあった。
 しかし、そういった中でも、子どもたちが希望をもって生きていっているんですよね。
 戦争を終わったということで、自分たちの決意を述べた詩があります。子どもたちは、平和日本を担うことを、戦後すぐに決意しているんですよ。
 昭20年の3月に卒業式があって、そこでの送辞では、戦争を行うようなことを言っていた子どもが、次の年の答辞で、平和日本、文化日本を担っていく、ということに対する決意をもっているんです。


鈴木洋子さん「戦争で障害者になって」
 
家平=福井の空襲で障害を受けたということですが
鈴木=1931年〜1945年に、学校教育を受けたんですね。それは教育勅語での教育でしたので、天皇のためなら簡単に死んでもいい、ということを教えられたんですね。
 7月19日に福井の空襲がありました。10万の都市に、焼夷弾が10万発落とされたということです。120機のB29がきたそうです。
 最初は防空壕に入りましたが、川原に逃げました。波状的にB29が来ていましたが、一生懸命に祈るような気持ちでいましたが、堤防の向こうから火の玉が飛んできて、腕を負傷し、最初は肘から下を、その後化膿したために、肩のところまで切断しました。
 毎日、母はどこに寝ていたのかと思いますが、夜通し看病をしてくれていました。痛み止めの注射をしてもらっても、すぐに痛くなって眠れないんですね。
 隣に寝ていた奥さんは空襲で片手と片足を切断し、破傷風で亡くなりましたが、その方の看病も母はしていました。
 一般の人は自分で逃げてくれと言われました。母がおんぶをして近くの防空壕まで連れていってくれましたが、もう苦しくて、もう逃げたくないと。

 軍隊が第一で、軍人は看護婦さんが運んでくれましたが、一般の人たちは自分で逃げたんです。
 病院に入院して、勝っても負けてもどうでもいいから、早く戦争が終わってくれと、それしか思っていませんでした。
 列車が運行するようになってから、妹と弟は長野県に疎開しました。でも家も着る物もない、悲惨な状況になってしまったので。
 福井にもいろんな軍事工場がありました。福井県は絹織物の産地で、それがすべて軍事工場になっていたんですね。私たちは、そういった情報はなにも知らなかったんですね。それで、あんなに空襲をされたのかと。

 学校教育で、戦争教育を受けてきたので、学校教育の逆の意味の大切さを感じています。
 教育基本法が改正され、国民投票法ができたのも、憲法を変えるためということを聞いていますが、9条の会をもっと大きくしたいと思うんです。
 憲法が大事だということはみんな思っていて、戦争をしてはいけないということを知っているんだけど、9条の会というと思想的にちがうという感じをもっているのでしょうか。
 平和を願っている人が9条の会に入ってほしいと思っているんですけど。

 職業安定所にいったときに、「交換手ならできるのに…」と言われましたが、その人が障害がある人は働けない…という話をしていた。
 都内の靴会社に就職して、そこは働きやすい会社でして、そこで夫と知り合って。
 
 父は、左手ですべてをやらなければならないということで、箸と大豆をもってきて練習をさせられた。
 町に出ることを戸惑っていたが、父は町に出ていかなければならないと言われた。

 9条は、戦争放棄ということが一番大事だと思うんです。日本がアジア諸国に大きな被害をあたえ、日本の優秀な人たちが亡くなっていった。特攻隊のことなどを聞くと、おろかな戦争によって命が失われたことを聞くと、そういったことを思うと、いつも涙が出てくる。

家平=戦争は、勝っても負けても、早く終わってほしいということを思っていたということが印象に残りました。


●フロアー発言

●荒川全障研委員長
 『みんなのねがい』の小川先生と家平さんの対談を読ませていただいているので、9条と25条をいったいにとらえることの大切さを感じました。26条も平和と民主主義をねがう日本人によって入れられたもの。
 9条、25条、26条、27条をいったいに考えていく必要があることを感じました。また、その輪を破壊するのが教育基本法の改悪であると思います。
 あらためて、もっと発掘しないといけないといけないことがあることを、松本さんのお話から思いました。
 空襲のときの機銃掃射のことを、母から恐ろしい光景であったことを子どものころに聞きました。
 私は直接戦争体験がない。それは、9条があるから。しかし、その戦争の傷跡は、いろいろとある。日本が人体実験をしたデータがベトナム戦争によって使われた、その人物が製薬会社をつくり、薬害エイズを起こした。
 この間怖いのは、草の根ファシズムみたいなものがあること。そのことに対して闘っていかなければならない。高校生へのアンケートでは、9条は変えるべきではない、というようになっているようだ。
 憲法、とくに9条は、世界の流れをリードできるものである。そのことを訴えていく先頭にこれからも立っていきたいと思います。

●神奈川・前田さん
 私が住んでいる横須賀では、アメリカ原子力空母が配置されることになり、住民運動を闘ってます

●オマタさん
 教科書問題は問題。戦争の悲惨なことを言うと、自虐史観だと言って、かつての戦争を含めて、日本のよかったところを強調する。
 草の根の保守運動、戦争賛美の運動を進めようとしている。
 東京都教育委員会は、中高一貫校で扶桑社の教科書が採用された。特別支援学校にも。
 純真な子どもたちが、戦争は悪いことばかりではない、などというまちがった思いをもたないように、これからも運動を続けていきます。

●エンドウさん
 難病患者として、25条に重きを置いた活動をしていきたいと思っている。
 大学で教育学を学んでいる。今後、特別支援学校で働きたい。
 松本さんの話が聞けてよかった。
 私の祖父母が戦争を経験していた。祖父がシベリアに抑留されていた。そのことだけで、戦争体験が語られていなかった。
 ある日、祖母が戦争体験を語った。たった一言、「戦争によって青春が奪われた」。その一言で、戦争がどれだけ悲惨なものなのか、心に響いた。

●三多摩肢障協・河邑さん
 鈴木洋子さんが、鈴木富夫さんと一緒に仲間に入ってきた。故・富夫さんの生き様がすばらしく、感銘を受けた。
 戦争によって障害を受けると、それは一生のことになる。富夫さんは、変電所の事故で両腕を亡くされた。ご夫妻で4本の腕のうち、3本がないなかで、がんばってこられた。
 私は引き揚げ者なんです。母は一言「私たちはだまされた」と言ったんですね。
 それまでは、上空を飛行機が飛んでいても、日本が勝つものだと思っていた。

●茨城視覚障害者・北島さん
 視覚障害になって11年。フォークソングは、反戦歌からはじまっている。
 最初は心に感じるものがあって歌っていたが、だんだんと語る人たちの話を聞いて、今は9条を語る歌なども歌って、9条を守る運動を、フォークソングで広げていきたいと。
 いろんな形で、9条を守る運動はあると思うので、戦争を起こさない運動を広げていきたいと思います。

●作業所の磯部さん
 はじめて9条の会に参加して、松本さんの資料の中に久留米学園という名前が出ていて、松本さん足でかせいで歴史を掘り起こしていることを聞いて感動しました。
 7日に、自立支援法の東京訴訟の口頭弁論があります。お母さんの思い、子どもの将来が見えないといことで、立ち上がってくれました。
 それを大切にしていかなければならないことを感じました。


●家平= 最後にシンポジストのみなさんに一言発言をしていただきます。

●鈴木
 私の夫は、労災事故で両手をなくした。それは20歳ぐらいのことだったようだ。
 会社に勤めながら、障害者の職業訓練所で、和文タイプを習って、会社に復職していたということです。それで、また結核になって、結核の療養をしてから復職をして。社内報の担当をしていたんです。ワープロが出てくると、ワープロで社内報を担当していた。
 私も手が悪いし、夫も手が悪いのでは…と心配されたが、野菜の皮をむくときにも、まな板の上に置いて、「どうすれば…」と考えてやっていましたが、練習をしていくうちに、スムーズにむくことができて。
 私は憲法がとにかく大事だと思っています。
 国分寺は公民館がまだ5館あるんです。一橋大学の渡辺さんを呼んで憲法の学習をしている。しかし集まってくるのは高齢の方。若い人に来てほしいが、どうやったら来てくれるのか…と、若い人が関心をもってくれないことがネックになっています。

●松本
 障害児学校を退職した先生たちの会がある。若い人たちに語り継いでいくことが使命だと。
 自分たちが受けてきた教育への反省と、自分たちがしてきた教育への反省と、今後の方向性を話しています。
 文献だけではわからないことがたくさんある。だからあるいてみないとわからないことがある。
 新しい発見の中で、研究が進んでいくことはうれしいこと。

●小川
 障害者自立支援法で、応益負担主義がまちがっていると言われている。
 その根本には「契約論」がある。社会保障の権利を使用するのに、これは契約だという人はいないはず。
 「契約」でサービスを受けるということで利用料を払う、これがおかしいわけです。
 その前は、「措置」だと。措置制度だから応能負担だと。
 今の憲法からすると、「措置する」という考え方からは、「措置をする義務」が国にはあって、必要なサービスを提供する。それを応能負担という名前で負担をすることが矛盾。措置が権利があれば、費用負担はかからない。
 1916年に、法律学者が「隠居論」という本を書いている。そこに老人権ということを書いている。老人は、ただ社会の一員だということで権利をもっている、と書いているんですね。それを、一般論として書いているが、それは日本ではちがう、ということを書いています。日本では隠居制度をもっているから、ということを言っているんですね。
 資本主義の元で、若い者も貧困化していくことを喝破しているんですね。
 今は、そのことを堂々ということができる。25条の根本は、国が保障しなければならないということなんですね。その担保には、憲法9条があるということなんですね。

●家平
 私も戦争を体験していない。しかし、このようにいろいろな話を聞くことで、それを実感して、自分たちのことと引きつけていくことができるのではないかと思います。
(文責=事務局)