瓦礫の街で 1  


95/02/04 02:09:45 瓦礫の街から<1>

今日、神戸の街に入った。
なんといっていいか、、、ことばが見つからない。

サンケイ新聞大阪の記者が、わたしへの昨日の電話取材のなかで、
「わたしも3日間派遣されましたが、TVで見ているのとは10倍違いますよ」
といっていたが、、、、
直接見る街は、
被害の大きかった東灘区、灘区をバスでぬけ、中央区、兵庫区は歩いていったが、
瓦礫の山また山で、それはすさまじい破壊されたものだった。

三宮界隈を歩いたが、そごうのデパートや神戸市役所むかいのビルなど、
みごとなまでに、グシャリとまがっている。
歩道はめくれあがり、段差やずれが大きい。
一瞬の地震の破壊力は、ものすごくすさまじいものがあるのだ。

ただ、今日、一番、おもっていることは、
道一つ離れると、そのようにペシャンコにつぶれた中古の住宅があれば、
一方でしっかりと建っている新しい家もある。
家は瓦礫となり、パジャマ姿で逃げ出して、避難所暮らしの人がいれば
家はりっぱに立ち、指輪やイヤリングをつけて、その被災者の間をベンツで走っていく女性もいる。

神戸市の人口は150万くらいと聞くから、
被災者は約30万人とすると、いい方をかえれば5分の1でしかないことだ。
もっといえば、電車で30分もしないところにある、
たとえば大阪・十三の飲み屋街はいつものように営業し、
金曜日、どの店も繁盛しているのである。

飲み屋が悪いわけでもなく、被災しなかった人がもちろん悪いというわけではない。
だだ、この神戸に住む人の中に、ある日突然から、
家をすべてうしなった人、家が半壊している人、身内を亡くしてしまった人
そして、生活はいつものようにやれている人
その全くちがった人たちが混在して生きなければならなくなったという事実である。

瓦礫の山は悲惨だ。
地震は恐ろしい。
その災害に、行政が無能ならば市民は多大の損害をこうむる。
しかし、その被害は、建物が建っていた位置にもよるが、
とどのつまりは貧富の差によって違い、そしてそのしわ寄せが一番多いのは、
障害者であり高齢者であり、社会的弱者なのだという現実である。

兵庫区の北にある荒田小学校の避難所にいらしゃる目の不自由なOさんを訪ねた。
Oさんはあいにく留守だったが、
体育館にびっしりとしきつめられた布団、毛布1枚をかぶって寝ているお年寄りが多い。
畳一畳ほどがそれぞれの唯一のスペースの中に、めざすOさんのご家族をみつけたが、
小学校高学年くらいの年頃の娘さんの顔色はすぐれず、
「兵庫障害者連絡協議会の会長の黒津さんに聞いてきました」「がんばってください」
といった自分だったが、
この被災者たちに、個人の力ではどうにもならないものを感じた。

一人一人の個別の切実なニーズにどうこたえていくのか。
行政の尻をたたきながら、一日でも早くあたりまえの生活ができるために
わたしたちはなにをしなければならないのか。

戦後50年。経済大国日本。
その国家として、その民主主義のレベルをかけて、
わたしたちが、この日本がためされているように感じた。

三宮行きのJRバスではばったりと、共作連の緊急役員会を昨日開き、
今日は西宮、神戸をまわっている、鈴木清覚運営委員長と藤井克徳事務局長といっしょになり、
県福祉センターのなかにある障害者支援センターでは、
京都市長候補者で都市問題の権威の井上吉郎さん
神戸で托鉢をしたこともあるという綾部作業所の指導員の渡辺さんとも会い、
池添常任をくわえた5名での、
兵障協訪問、そして兵庫区の避難所の視力障害者訪問となった。

朝の11時に7分遅れの新幹線が新大阪についてから、わずかの間のはずなのに、
とても長かった一日だった。

(つづく)

イメージ

犬たちも住まいを奪われた(神戸市)


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