瓦礫の街で 2


95/02/05 02:24:50 瓦礫の街から<2>

2日目。
午前中に宝塚市立病院にポリープ削除のため入院している池田支部長を見舞い、
午後1時に、「仁川」駅で待ち合わせして、
河南勝事務局長と阪神養護学校、
西宮市福祉センターにある更正施設や通所施設、
そこの施設を借りて自主保育をやっている全障研グループ、
さらには芦屋の三田谷治療院、
天皇が空からやってきてまた飛んでいってしまったという西宮市中央体育館の避難所などをまわった。

芦屋市と西宮市にかけての被害は、新幹線の高架が落ちていることに象徴されるように、
古い住宅はお屋敷、アパート問わず、さらにはかなりのビルもマンションも崩れている。
見た感じでは、三宮界隈のビル崩壊地域と同様に、相当の激震がはしった感じだ。

阪神養護学校のスクールバスの運転手さんが、
早朝、スクールバスのところに行こうと自転車を走らせているとき、
「赤い光を見たとおもったら、神戸の方から、道路が波打っていくのが見えて、
 自転車にはとても乗れなくて、へたりこんでしまった」
というから、すさまじい破壊力だ。

不思議と、ガソリンスタンドは神戸も営業していたが、ここもそうで、
特別に地震には強くつくってあるらしい。

正直、1日目の神戸では、あまりの惨状に、
そして、さまざまなものを失ってしまった人たちと、
大阪や東京のわたしたちふくめ、そうでない人たちとの格差に呆然としてしまったのだけれど、
この地域では、それ以上の破壊された街のなかでも、
西宮市40万、芦屋市8万という、
いわば「手のひら」で把握できる、障害者・家族ふくめてさまざま人たちが、
施設や学校や福祉事務所などそれぞれのセクションで把握できる
そういう規模の自治体というなかで、
人口100万人をはるかに越えている神戸とはまた違って、
具体的な障害者やその関係者たちの動きが見えてくるように感じた。

ある重度障害者の通所施設では、幸い、園生も職員も全員無事だったが、
その安否の確認は当日の昼には完了。
家がつぶれたかなり重い障害者とその家族が避難しているが、
半月たったいまでは、本来の通所活動の再開をはじめている。

園長は「在宅で地域で重度の障害者が生きていく場合、
 日頃の施設や地域でのネットワークをどうつくっているのか、
 その障害者のさまざまな情報、ネットワークをどう把握しているか、
 その日頃の問題が決定的に重要なんです」
とキッパリといっていた。

六甲の山並みにつづく甲山にある北山学園という児童通園施設の職員は、
それぞれ家がつぶれたりしているメンバーもふくめて、
通園事業を停止させられて、同系列の療育園や老人施設に応援要員として派遣されている。

しかし、市内に残っている子どもたちは半分の15名。
その子たちは、あそんだり、歌ったりできる場を、こうしたなかだかこそ、切実に求めている。

だから、と、土曜日、日曜日の職員の休日の日に、
市内の施設のホールを間借りして、自主保育をやっていた。

ピアノの音に、自閉的な子、多動気味な子、いろいろな子が、
それぞれのおもいで楽しそうに動きまわっていた。
自主保育をしているメンバーも、とても楽しそうだ。
しかし、一歩外に出れば、福祉センターの1階は地域の避難所で、
フロアーには布団がびっしりと敷き詰められ、入り口の前には仮設トイレが林立している。
そして、周りの建物は崩れ落ち、メンバーの一人の家は全壊している。
そうした瓦礫の町中なのだ。

西宮市と尼崎市と宝塚市のちょうど境目で、
武庫川の河川敷の横に建つ阪神養護学校の被害は、
生徒、職員の死亡はないものの、生徒が1名、重症でいまも大阪の救命センターにいる。
彼のお母さんは圧死した。
100名ほどいる職員の20数名は家がつぶれているそうだ。
校舎は、どうも地震のさいに、浮き上がったようで、
小学部や中学部の建物は、専門家にチェックしてもらわないと使えないほどだ。
明後日の月曜日からはスクールバスもなんとか動かして、学校を再開するという。
それまでは、すみやかな安否の確認後、教師がそれぞれの避難所や入所施設を訪問して、
そこで授業をおこなった。
休日には、組合や全障研メンバーで、
生徒たちが入所して通ってくる施設などにいってブタ汁やあったかいものをつくっているのだそうだ。

なんといえばいいのだろう。こういう極限状態の時に、人間は、
こうした自主的で、献身的で、あったかい、とりくみができるのだ。

それはなにがそうさせているのか。
自主保育をしているメンバーと子どもたちのさまざまな笑顔をカメラにおさめながら、
人間はなんて美しいんだろうと、めがしらが熱くなっていた。


イメージ
     人間は美しいとおもう(西宮市)


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