トップページ> 2008 シンポジスト・岩佐幹三さんの発言


いわささん みなさんこんにちは。今日はここにお招きいただき、大変うれしく思っております。
人間はさまざまな形で差別をされ、そして障害を負い、苦しみながら闘ってきているということを強く感じます。

私たち原爆被害者も、障害者の一人ですね。しかも国が起こした戦争の結果招いた被害です。この被害と闘いながら、私たちはこの63年を生きてきました。私は軍国少年でしたが、原爆被害に遭って、私の人生はガラッと変わりました。

みなさんのお手元に、「母と妹への手紙」というものがあります。これは私の、今年の夏にNHK広島が「被爆者からの手紙」というものを集めました。そのときに応募しまして、中身に触れるものがあったのでしょう。最初の15分ぐらいから6分間、この中から省略して朗読してくれました。

もう一つは、『学習の友』という雑誌に掲載されたものです。「広島を生きる」という形で、私の体験をある程度書きました。これは若干重なっておりますが、もしできましたら、そちらを読んでいただくことにしながら、そこと重ねながらお話をさせていただきたいと思います。

私が原爆に遭ったのが16歳のときです。広島の爆心地から1.2キロの日吉町というところです。中学を卒業して、そのときに陸軍の航空飛行士学校を受けたいと思ったのですが、8月6日に原爆でやられました。
自宅の庭にいまして。とにかく食べ物がなかったですね。それで小さな畑にカボチャを植えまして、まだできてないかなって見ているときに、米軍機が飛んできて、原爆が炸裂した。

何があったかわかりません。ただ私はその飛行機を日本の飛行機だと思っていた。音がね。広島に落とすためにスピードを落としていたんですね。ですからB29だとは思っていませんでした。

家の前のバス通りで、子どもたちが「飛行機だ、飛行機だ」っていう声を聞いた途端に、ガーンとバットで殴られたように地面に叩きつけられた。これは大変だ、どっかのイタズラ小僧がバットをもって殴りかかってきたって思いました。当時は、私もイタズラ小僧だったのですね、そういうことを考えるということは。それで立とうと思うと、全然立てない。上からものすごい力で押さえつけられているようで、目の前が真っ暗だった。

必死になって這いました。そしたら1メートルぐらい這ったら、材木が手にあたるんです。そのときも変なことを考えましたね。「あっ、ここに材木がある。今晩風呂が焚ける」って。そのうち、ほこりがあがっていくと、目の前の広島の町が完全に消えていました。本当に一瞬のことで。みなさん一瞬と言ってもわからないですよね、本当に一瞬で町が潰れた。

私は、たまたま前の家のかげになったらしくて、熱線も避けることができたんですね。それで、火傷もしていないケガもしていない。
でも、家が潰れた。それで私は家の中に母がいることを思い出して、「お母さん!」と言うと、一切声がしない。ここあたりだろうと思った所も掘り出せない。それでとりあえず逃げました。

でも、逃げると言っても、まわり一面火なんですね。それで裏に中学がありましたからそちらにとりあえず逃げようとすると、火がないようにまわって逃げようとしたら、隣の4歳の子が見えたら、喉が切れて、気管支と食道がはみ出していた。血まみれになっていた。
これがまた奇跡的なんですけど、中学の真ん中に15メーターぐらいの防火水槽が掘ってあった。そこへ家の下敷きになったはい出してきた人たちが、5、60人ぐらいですかね。それでそこに行って、そこで向こうからくる火をなんとか防いだ。それでまた焼け死なないですんだ。

しかし、町の中では、そんな中学校なんてありませんから、自分の家からはい出してみたら、町には小さな防火水槽が昔はありましたよね。その中に、5、6人、なかには7、8人が固まりのようになって死んでいる姿は、いたるところで見ました。それからまた、その日はそれで、広島には7つの川がありますけど、川岸で野宿をして、それで翌日家の方に行きましたが、熱くて入れませんでした。それで、しかたなく郊外の叔母の家に行きましたが、そこに女学校の1年生だった妹も来ていませんでした。
フィンランド語版の「はだしのゲン」
とにかく2、3日後、家の跡に行ったら、母は小さなマネキン人形に油、コールタールを塗りたくって焼いたような姿で出てきました。人間の姿じゃないんですね。ですから、それが母ということを確認していませんけど、私が逃げるときに見たその場所にいましたから、遺体にはちがいないんですけど、それは物でした。広島や長崎では、被爆者は人間として殺されたのではなくて、物として殺された。

そしてその後、妹を捜すために広島の町を何日も歩きましたけどいません。
それで1か月経って叔母の家に雨模様の日だったですけど、そこに帰るときに、地面に埋まるような体の重さ、倦怠感というかを感じながらを帰って、軒下に座り込んだ途端、動けなくなってしまいました。

体中に赤い斑点ができて、喉が痛いんですよね。それから熱が出て寝込みます。普通だったら死んでいるんですよね。だって(爆心地から)1.2キロですしね、放射線も直接浴びていないけど、さまざまな乱反射で浴びている。

叔母の家の近所に産婦人科のお医者さんがいて、そこに100人ぐらいの人が来ているんです。でも、薬がないですよね。それで病院の廊下や、横に病棟があったんですけど、そこにずーっと並んでいるんですが、何の手当もできない。私もそこに連れていかれたんですけどなんにもできない。

しかし叔母は、一生懸命近所の人に聞いて、たまたま同じ村に疎開していた歯医者さんを見つけてくれて、その歯医者さんに頼みこんで、おそらく隣が酒屋さんだったので、そこに頼んで酒をもっていったりして、いろんなことをして、やっと来てもらって、毎日10本ぐらい注射を打ってもらったそうなんです。
私はよく覚えていません。それで1週間ぐらい経ったころから、なんか鈍痛になっていき、痛みもなくなっていくし、血もとまっていくし、そしてですね奇跡的に回復しました。

なぜこういうことを言うかといいますと、戦後アメリカのファーレルという、准将といいますから大将の下ですか、この人が、9月になって、私が治ったころですが、もう広島・長崎では死ぬ人はすでに死んでしまったと、もうこれ以上被害はないんだと言って、広島・長崎の被害を、国の中はもちろん、世界中で出すことを押さえたんですね。原爆被害を隠した。

さらにジュノという国際赤十字から来たお医者さん。この人は広島に少し薬をもってきたんですけど、その薬は使った。でも、これではとてもダメだということで、国際赤十字を通じてですね、国際赤十字に救援を求めようとした。

私を治療したのは歯医者さんですよ。どういう注射をしたかわかりませんが、それでも助かったんですね。そういう救援があれば、その年内に21万人もの人たちが広島・長崎で亡くなったんですよ。その内の何割かは助かったかもしれない。

いわささん 
原爆の被害というのは、戦争がもう終わるときに、もう日本には戦力はないわけです。もう日本が徹底抗戦などできないということがわかっているにもかかわらず、アメリカは原爆を落としました。さらに、その原爆の被害を世界に伝えて救援を求めるのではなく、それも押さえつけた。日本が戦争を起こして、その結果を招いた。アメリカは国際法違反の残虐な兵器を使った。これは戦争責任の問題です。戦争犯罪の問題です。
それと同時に、あまり言われていませんけど、被害を隠し、被爆者を放置したということは、戦後責任。これほどひどい処置があるでしょうか。

そして、その後12年間日本政府は、なにもしません。アメリカ政府はしました、ABCCという機関をつくって、被爆者を調査しました。調査したのはなぜか、今後の軍事的な利用のための調査。被爆者に対する治療は何一つしません。どういう病気になっている、ということも教えません。まさに戦争の中での人権侵害というか、人権をにぎりつぶした。

そのアメリカが今、世界で人権、人権なんて言うなんてちゃんちゃらおかしいですね。あのことを反省してですね、もう原爆を使うなんてまちがいだ、こんな兵器は使ってはいけない、と言うべきだと思います。でも言いません、核兵器をもっているかぎりは、自分が強いと思っているから。

私たちは、そうしたアメリカ政府、そして国の姿勢というものを、変えさせるための闘いを続けています。
そして、昭和29年にビキニで第5黒竜丸が被爆しました。そして30年から原水爆禁止運動世界大会が、31年に私たちの、原爆被害者の全国組織である、日本原水爆被害者団体協議会がつくられた。そういった運動の結果、32年に医療法というものができた。

しかし、この法律は、検査をします。そしてもし原爆の影響が認められれば、その人は原爆のせいで病気になったということを認めましょう、そういう制度です。たったそれだけの制度です。でも、それでもつくらせた。その後、徐々に改善されてきていますけど、国は原爆の被害ということは、放射線の被害である、ということしか言いません。熱線、放射線、その総合的な被害、そして、人間は、物のように殺された。すなわち、人間として死ぬことも、人間らしく生きることも許されない被害があり続けている。

私は元気そうに見えますが、実はガンを抱えています。そして白内障、そういう形で50年ぐらい経ってから、遅く出る放射線もあるわけです。こういうものと闘いながら、やはり私たちは、私たちのような被害が再び繰り返されないために、核兵器の廃絶、そして再び繰り返さないということの証としての、原爆被害に対する国家補償を求めて闘い続けてきているんです。

この国家補償というのは、外国の人たちや空襲の被害にも広がらなければダメだと言うんですが、再びあのような被害、戦争被害もそうですが、それを起こさないために、その決意を示して、これからの戦争を起こさない、被害を出さないということを国民に約束することが国家補償だと思っている。私たちに何かをくれと言うのではない、そのことを約束させること、これこそが核戦争、そして戦争を、核兵器のない世界を築いていくための、一つの大きなとっかかりになるのではないかと思っています。

私は、憲法9条、最初に憲法9条が広がるかな…と思いましたが、広がってきました。みなさんも集まっています。
日本国憲法というのは、私のイギリスやヨーロッパの歴史研究という視点から見ると、実は人類が歩んできた歴史、その中でつくり上げた理念を、受け継いで、ただアメリカの占領軍が勝手に作ったものではない。それを受け継いで作られたものです。

『日本の青空』という映画がありましたけど、鈴木さんとか、そいう人たちが戦争中、よく自分たちの考え方を胸に抱きしめながら。まさに、人類の歴史の中でつくられた、平和でそして人間の権利を活かしていく、そういう法律をつくったものだと思います。

その日本国憲法は国民主権、平和主義、そして基本的人権ということは学校でも教えますよね。その中でも、私は国民主権ということは非常に大切だと。私たちの最大の失敗は、国民主権ということを本当に求めて、それを国民の中に定着させてこなかった。私の年代の責任だと思いますけど、あの戦争が終わった時に、一億総懺悔なんてことばに、それでアメリカ占領軍が解放軍だなんていうことばに。その国民主権ということをうやむやにしてしまった。

ですが、国民主権というものが何かというと、私たち国民が主人公だということですよね。私たちは主人公なんです。憲法を守る、憲法9条を守る、守るというだけではなく、守るのは私たちなんだ、国の主人公である私たちなんだっていう気持ちというか確信をもって闘っていくことが、これからの運動であり、私たちが生きていく道ではないかと思います。

私たちは被爆者ですから、被爆者の立場で国の戦争責任を追及しながら、これからも運動を進めていきたいと思います。私も80歳になりましたけど、まだとにかく病気や年だなどと言っておられません。みなさんといっしょに手をつないでやっていきましょう。ありがとうございます。(編集部の責任でお話をまとめました)