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■大原譲子さん
休すむ暇なく、「お国ことばで憲法」で全国をかけまわっています。昨日は奈良から帰ってきて、今日は午前中、地域のお母さんたちと朗読の勉強会をしました。午後は私の住んでいる川崎市の麻生区で「まんよう9条の会」がやられていまして、仲間はそちらに行ったのですが、私はこちらに寄せていただきました。
私が10歳の時に戦争が終わりました。それから60年間、新しい憲法ができてから1度も外国に向けて銃を向けたり、外国の方から私たちに銃を向けて、一人も殺されていません。それは私たちが憲法9条を守ってきたからです。
4月1日が私の誕生日なんですが、今年は10歳になる孫から、きれいなハンカチとお花をもらいました。感無量でした。この子に銃を持たせて、外国へ人を殺しに出したりしては絶対にいけない、これはばあばのつとめだと思って、今日もみなさんからお力をいただいて、帰ってがんばろうと思っています。
大阪弁で9条を訳したものがありますので、これをみなさんに聞いていただいてごあいさつがわりにと思います。
(大阪弁の第9条を朗読)
■松田春廣さん(肢体障害者、80歳)
・4冊目の出版「木霊」。1節「戦争と平和」。(朗読)
・『米喰い虫、非国民とののしられ』の1節。「屈辱的な徴兵検査」(朗読)
■杉浦洋一さん(全日本教職員組合障害児学校部長)
障害児教育にとって憲法は宝物だと思っています。9条を変えることは、ある日突然に海外で戦争できるように法律を変えることだけではないんだと実感しています。9条につながるあらゆるものを変えていくこと、それが9条を変えることだと思います。
いま教育の場では、9条を変えることにつながるようないろんな動きが起こっています。いくつかご紹介します。
一番特徴的なのは、「子どもたちのために」という教育の前提を壊して、つくりかえてしまう動きだと思います。「お国のために」「企業の経済活動のために」という論理があからさまに持ち込まれています。
障害児学校で、子どもたちがみんなに祝福されて、自分で卒業証書を取りに行く。そういうことを大切につくってきたフロアでやっていた卒業式が、突然変えられました。日の丸を背にして壇上で証書をもらう。そういう卒業式が、この東京でも強引にもちこまれました。「自分たちは祝福されて生まれてきたんだ。命は大事だ」と伝えてきた都立七生養護学校の性教育(こころとからだの教育)もたいへんな攻撃がかけられました。
教育の場で、費用対効果、こんな言葉が幅をきかせています。企業や行政にとって、お金をかけただけの価値があげられるのかという点検がされています。「障害児ひとりにかかる教育費が健常児の11倍。たくさん税金をかけたのに、卒業してからも福祉の恩恵にあずかるような教育ではだめだ。タックスペイヤー(納税者)を育てる教育を」。こんなことがあきらさまに教育行政に言われています。お金をかけない特別支援教育。これは権利としての障害児教育そのものを壊そうとしています。子ども同士、教職員同士、学校同士の競争を強めて、成果を急ぐ教育のなかで子どもたちは悲鳴をあげています。
私たちは、このような9条改悪につながっていくすべてのあらわれと、歯を食いしばって各学校で、お母さんたちといっしょに闘っています。
9条を変えることは、憲法26条をゆがめる動きと一体のものだと思っています。すべての子どもたちの命と瞳輝く教育を。私たちは障害児教育を進めるときに、いつもその旗印に「すべて国民は等しく教育を受ける権利をもつ」この憲法の理念を高く掲げてきました。全国の教職員は、この理念を大事にして、憲法を守って、生かして、みんなでそういう国をつくっていこう。その運動をがんばって進めていきたいと思います。ともにがんばりましょう。
■大久保哲夫さん(奈良教育大学元学長)
私も敗戦の年の8月は、国民学校の4年生でした。それまで軍国少年に育てられつつあったわけです。戦争に負けて、中学に入りましたら、「新しい憲法の話」という文部省のつくった本(副読本)を手にしました。そのなかに、戦争放棄の話も出ていますけれども、軍艦とか戦闘機はみんな放出するような絵と共に、これからの日本は戦争はしない、と書いてありまして、たいへんすばらしいことだと思いました。そして、憲法9条を中心とした日本国憲法を大事にして、戦後60年、いろいろな分野で取り組んでまいりました。
「九条の会」は、昨年の6月にアピールを発表されまして、全国で賛同が広がっています。昨年の夏頃から、ぜひ私たち奈良でも九条の会をつくろうではないかと、数名の者が集まりまして呼びかけの拡大をして、50数名で「九条の会奈良」をつくろうとアピールを発表しまして、今年の4月に最初の集まり「憲法講演会」をもちました。それこそ待っていたぞとばかりに数百名の人たちが講演会に参加し成功しました。いま街のすみずみまで、いろんな職場に、いろんな地域に、憲法九条の会を広げていこうと、あちこちでできつつあるところです。障害者・患者9条の会をはじめ、いろいろな分野の九条の会も大事だと思っていますので、私もこちらにも参加し、奈良での障害者・患者の9条の会をつくっていきたいと思っています。いっしょにがんばりましょう。
■辻川寿之さん(むちうち症患者、73歳)
患者・障害者の運動を40年ほど前から関わり合っています。
今年は、広島、長崎の世界大会に参加しました。そして、有明のきれいな海を戻せという闘いにも参加してきました。
小学校2年生のときに、国民学校に変わりました。尋常高等小学校から旧制中学に進み、その中学のときに長崎の原爆を大浦で見ました。私のいなかは軍港のある佐世保市です。そこで終戦をむかえましたが、軍国少年だっただけに、価値観がまったく変わりました。
学校には若い先生が中央から赴任してきて、いろいろな民主主義の話をしてくれました。私は勉強はできなかったんですけれど、教科書は全部、墨で削られましてね、まともなのは国語の万葉集と数学だけでした。歴史、修身は全部削られました。したがって教育の中味はまったくなくて、今も勉強しなければ、正しい教育の中味、民主主義の中味は、わかりません。だから、こういう団体でいっしょに勉強しながら、まちがいのないような、憲法9条の将来を目指す方向で、がんばっていくつもりです。
■辻川郁子さん(薬害スモン患者、77歳)
私は、高等女学校の動員で働いていたときに爆撃を受けました。家も焼けてしまったという報告があり、残りものを一生懸命かき集めて、いなかに帰りました。「卒業」がないままに、田舎の疎開先で卒業して終戦をむかえたわけです。卒業式とか思い出のないままに卒業しました。
上の学校に行ったのですが、そこでは解放された新しい雰囲気のなかで、社会科学研究会などありまして、そこでいろいろなことを学び、運動に参加するようになりました。
兄たちも戦争に行きましたが、誰も被害はなかったので、そんなに戦争による被害を強く感じているわけではないのですが、妹も戦災のために学校を途中でやめていなかに帰らなくてはいけなくて、お友だちがなくて、ということもあり、ずっと今にいたるまで、精神的なひずみは持っているという状態はあります。そういうことが二度とないようにしたいと思っています。
■松本昌介さん(元教員、全国肢障協)
吉川勇一さんとお会いできてうれしかったです。高校生のころに「わだつみ会」の運動で関わりをもたせていただいたので。この運動が私の原点です。
その後、教師になり、平和を守ること、憲法を守ることを訴え続けなければと思い、毎年「学級通信」で、憲法の条文を書いていました。
障害者が学校に行けなかった時期があるんです。日本中のほとんどの障害者は学校に行くことができなかった。私の友人の障害者も、学校教育を受けていない人が大勢いました。そして、障害をもつ人が、戦争中にどんなに苦しい思いをしたか。「なにもしないで飯だけ食っている」という意味で穀潰しと言われて、一歩も外にでれないでいた体験など、学級通信に書いていました。そういったことを訴え続けて、何人かの障害のある人の戦争体験をまとめた『米食い虫』という本もつくりました。
肢体不自由児校の光明養護学校が燃えてしまい、子どもたちは長野県に戦後4年間も学童疎開をしました。東京に戻っても通える学校がありませんから、旅館の一室で4年間も勉強しながら疎開生活をしていた。そのことを調べて『信濃路はるか』という本にまとめました。
いま気になっているのは、肢体障害者だけではなくて、視覚障害者、聴覚障害者の人たちの戦争体験です。盲学校、ろう学校を調べていくと、戦後長い間疎開しているんですね。学校が焼けて、戻ってくる学校がなくなって、疎開先にいるしかない。私がそれが気になって、盲学校、ろう学校を訪ね歩いています。
そして、当時の記録をまとめないといけないと思っているんです。いっしょに取り組んでいる花田さんに変わります。
■花田克彦さん(聴覚障害者)
私はろうあ者の戦争体験の本をつくる準備をはじめています。
8月には広島に行きました。被爆60周年の大会にも参加してきました。
空襲警報が聞こえず逃げ遅れた。しかし、自分だけ部屋にいて助かった方、まっくらな防空壕のなかできょうだいをさがした方。そんな話をいろいろうかがいました。
そのなかで気づいたことがあります。60年前のろうあ者の、情報が入らないという苦しみ。それはいま、どうなっているでしょうか。全く同じです。やはり聞こえないために、情報が入らずに困っていることは少しも変わっていません。もしいま戦争が起きたら、最初に被害を受けるのは障害者です。
そのためにも60年前の話をいまに生かすために、戦争は全体にいけないという立場で、運動を続けていきたいと思います。
■阿部広子さん(視覚障害者)
今日は行事が重なり、東京都視覚障害者協議会からは数人しか参加していません。
私は芝居が大好きです。今年はお芝居のなかで2回、原爆にあってきました。
お芝居なのに、すごい爆風とゆれを感じました。そのなかで、私たち視覚障害の先輩は……どうだったんでしょうね…。今回の選挙でも、平和を守るために力をかしてくださいとたくさんの人と話をしています。
障害者だから9条の会が必要だと思います。がんばりましょう。
■田崎博芳さん(視覚障害者)
日本平和委員会の講演を(パソコンで)聴きました。有事法制のなかで戦争準備はすでにできあがっていて、憲法9条さえ変えれば発動できる。いまそういう状況です。
住基ネットも国会で可決されました。個人情報を登録するわけです。さまざまな情報が内閣府に流れ、自衛隊にも通じている。その項目は1000数百になるそうです。背中が寒くなります。
そういうことは大きなマスコミは知らせません。こんな怖い状況のなかで、憲法9条を変えさせなてはいけないと思います。
■今福義明さん(アクセスジャパン)
吉本さんがおっしゃった、憲法を根拠にして障害者の施策がつくられていない、ということを実感として思いました。
今年、交通バリアフリー法が改正されます。私は移動権を要求しましたが認められませんでした。全国各地にさまざまなバリアフリーの設備はできますけれど、乗車拒否されたときや地域の公共交通機関がなくなったときなどに訴える根拠がない。
この根拠がないというのがおかしい。欧米には差別禁止法があったり、韓国にも交通バリアフリー法ができまして、そこには移動権が明記されている。
9条のことでは、今回のルイジアナ州でもイラクにかける1か月52億ドルの2週間分、5億ドルの防波堤さえつくっておけば、災害はあそこまで大きくならなかったかもしれない。私たち障害者は、あのような災害にあったときに、逃げられません。
殺したくない、殺されたくない。今日は憲法9条の重みを思って参加しました。
■内田信次さん(東京北区肢障協)
終戦のときには大田区にいました。まわりは全部強制疎開で、まだ住んでいるのに家をどんどん壊されて、やむなく引っ越していました。私の家の前に焼夷弾が落ちて、危なく家が燃えてしまうところでしたが、焼夷弾がずぼっと刺さったために燃えずにすみました。
私は強制疎開に行きませんでした。80歳過ぎのおばあさんと母親と私と3人だけで、死ぬのならいっしょにここで死のうと思って行かなかったんです。
すると3月10日の大空襲で、まるで焼夷弾が雨のように降って、3階建ての立派な小学校ががれきの山にようになってしまいました。北も南も東も西も、真っ赤に燃え上がって、防空壕の前にたてかけていた材木が消し炭のようになってくずれていくのを見ました。まわりは着のみ着のままであちこちから逃げてくる人たち。どっちを見ても、燃える煙で苦しくて、防空壕に入っても苦しい。
「もうこれで終わりだな」と思ったのですが、どういうわけが生き延びてしまって、いま平和憲法を守ろうと思っています。これを守っていかないと障害者は生きていけない。そんな気持ちでみなさんとがんばっていきたいです。
■笹田都さん(肢体障害者)
私が生まれたのは戦後の昭和22年です。私が学校に行くときに光明養護学校はありませんでした。地域の学校に通いました。遊んでいるときに石が飛んできて、いじめにあいました。
そのくりかえしをやらないといけないのは、なにごとですかと言いたい。
■丸山啓史さん(東大九条の会)
僕は戦争体験をもっていません。だから「外国に軍隊を送って人を殺すな」「爆弾を落とすな」と素朴に考えている面がありますし、素朴に考える以外になかったということもある気はします。しかし、そのうえで、どうしてわざわざ「9条の会」をつくってやっているのか。みなさんががんばって、60年間憲法を守ってきてくれたのに、いま変えられるときになって、自分たちが何も言わずに変えられてしまうと申し訳ないという思いもあり、プレッシャーを感じながら取り組んでいる面もあります。
先日、友だちとベトナムに行ってきました。ハノイの博物館に行くと、日本が侵略し、戦死者と共に200万人の餓死者もでたことが紹介されていました。ホーチミンの博物館ではベトナム戦争が紹介されていて、そこには、ベトナム反戦で活躍した日本人のこと、枯れ葉剤の実態解明やその後の取り組みで活動してきた日本のことが紹介されていて、うれしいことでした。そういう、歴史、伝統こそ引き継いでいきたいと思います。ハノイのように、「日本人がやってきて人が死にました」というようにしたくありません。
■永野幸雄さん(退職教職員の会)
私たちは、障害児教育への取り組みとともに、戦争体験者として、毎年、教育研究集会のときに「平和展」をやってきました。
私は、5月29日の最後の大空襲のときに被害を受けました。妹は母の背中におぶさって、火のなかを逃げまどいました。「まさこ(妹)が息をしない、まさこが息をしない」と、あわてておろして人工呼吸をする。そんな体験をしました。そして8月15日。私は学徒動員で中央郵便局で仕事をさせられていました。天皇の放送もその地下室で聞きました。
私たちは、そういう体験を語り継いで、障害をもった人たちが安心して生活できて、成長、発達をゆたかにしていける21世紀をつくるためにがんばらないといけないと思っています。
私たちの会では「どっこい」という機関紙をつくっています。「どっこい生きてるぞ」ということもありますが、戦争体験を文集にしようというところから始まりました。戦跡めぐりもしています。これからも平和のためにがんばります。
■森孝一さん(難聴者)
自分で車を運転して行動しています。ひとつ困ったのは、どんどんあがるガソリン代です。これはブッシュがイラクで戦争を始めたことがもとにあると思います。こういうところにも障害者いじめがある。
ブッシュは防災のことをやらなかった。そのためにアメリカの国民が困っている。そしてまたガソリン代があがります。私もたいへん困ります。
■宮内俊清さん(全国肢障協事務局長)
私は電動車椅子です。この前の台風のとき、水がいっぱいたまってきたときにどうやって逃げればいいのか、と考えました。自分の身を危険から守るために、なかなかいい方法はないというのが現実だと思っています。
そういう現実のなかで、おかしいと思うことがある。ひとつは、イラクに行っている自衛隊です。私は軍隊と思っていますが、憲法があるがゆえに武器を持っていくことができません。そこで、外国のオランダ軍に守ってもらっている。しかし、ひとつひとつ既成事実を積み重ねて、自衛隊が海外に行けるようになってしまっていることはたいへんなことだと思います。
そのイラクでどんなことが起こっているのか。日本の青年がイラクでつかまり殺されました。しかもその殺害する映像がインターネットで公開されている。戦争というのはそういうことなんだと思います。こんなことは2度とおこしてはいけない。自衛隊を1日も早く日本に戻すことの大事さを強く感じています。
明日の11日は、アメリカの同時テロ攻撃の日です。あんなこともおこしてはいけない。私たち障害者は、日本で平和、世界の平和を守るために役割を果たさないといけないと思います。
明日の9.11は総選挙です。憲法を改悪し、9条をなくして、戦争をできるようにしようとしている人たちに対して、だめですよと国民の審判をくだす。そしてその結果をみんなで語り合う日にしたいと思います。
■かみむらさん(視覚障害者、千葉)
去年、初めて参加した世界大会で聞いた大原さんの「お国ことばで憲法を」を思い出しました。そのとき、写真家の森住卓さんのイラク報告を聞きました。戦争の悲惨さを実感しました。
平和を語り合うと政治が前面にでてきて、政治以外では語れなくなっていると感じます。私は戦争を体験していませんが、被爆体験や戦争体験を聞くことで考えさせられます。
そのなかで、自分で思ったことで運動をしていきたいと思います。
■大里さん(視覚障害者、茨城)
教科書問題で発言します。茨城でも扶桑社の教科書を認めさせようとする請願書が地方議会に出され、反対運動もありました。そのなかで私たちも、地元の9条の人たちといっしょに教科書について学習しました。
本当に扶桑社の教科書はひどいです。「歴史」では史実をねじまげて、「公民」では憲法を軽視する。なぜそうなるのかと言えば、9条を改悪する大きな動きがあるのだと思います。こういう動きを止めていくためにも、みなさんといっしょにがんばっていきたいと思います。
■原金二さん(長野)
病弱養護の教員として病院のなかで努めています。教育権保障でも、なかなか憲法のレベルまでいっていません。長野県では、今年から年齢制限がなくなって、これまで義務教育や高等部の教育が受けられなかった、年齢の高い人たちも訪問教育を受けられるようになりました。教育リストラがすすめられるなかで、まだまだやることがたくさんあると思います。
長野でも、各地域で九条の会が広がっています。しかし残念なのは、なかなか一般マスコミに報道されないことですね。やはりこれを日本全国の人が知るような運動にどうやってつくりかえていくのか。全国はひとつ、長野もいっしょにがんばることを表明します。
司会はてんかん協会の福井典子さん、全障研の薗部英夫さん