ホーム>よびかけ人からのメッセージ(茂木、吉川、吉本)
■茂木俊彦さん
最近この国の首相は、「憲法9条の改正が、どうして戦争につながるというのか、自分にはよくわからない」というようにとぼけたようでありますけれども、戦争につなげるために9条を「改正」しようとしていることは明らかであります。
戦争というものが、戦争そのもののなかで人を殺し、さらに障害者を生み出すということ。これは非常に明らかですけれども、最近のアメリカのハリケーンの事態がよく示していますように、あそこで被害を被った人たちが、「ブッシュはなにをやっているのか。イラクに人々を殺しにやっていておいて、自分たちのほうにはなにもしないではないか」と言っているわけです。
もう少しつっこんで考えてみますと、ハリケーンの被害者のなかで、命を失ったり、疫病にかかるなど困難を抱えているのは、経済的に貧困で逃げる手段がなかった人々でありますし、さらに障害のある人やそのほかのマイノリティの人たちであります。
戦争というのは、外の国に出向いていって、侵略し、人々の命を奪い、障害者を生み出すと同時に、その国のなかにおいては、とりわけ経済的に困難な人や生きること自体に困難を抱えている人々の生きる力を奪ってしまう、そういうことがあります。
わが国でも、戦前から戦後にかけてさまざまな経験があるわけです。
これからも運動のなかで、力を合わせてがんばっていただきたいし、私も微力ながら力をつくしたいと思っています。よろしくお願いします。
<司会>岩波ブックレットの最新刊(NO660)は、『都立大学に何が起きたのか −総長の2年間−』茂木俊彦著です。
行間から怒りとしかし今後の展望を感じる本です。ぜひ、本屋の店頭ででご覧ください
■吉川勇一さん
日頃は「市民の意見30の会東京」という反戦市民運動のグループで活動しています。たとえば今年の5月3日には、朝日新聞や毎日新聞などに「9条実現」という全面意見広告をだしました。
今日は個人的なお話をさせていただくことをお許しください。
10数年前に私はガンにみまわれまして、膀胱を全部摘出しました。それで身障者手帳をもつ身になったんですが、その後も胃にガンが訪れて胃をとったり、イレウスにみまわれたり、何度入院しておなかを切ったかわからないんですが、ガンとのつきあいをずっと続けております。
ところが6年ほど前に、私のつれあいがやはり身障者になりました。視力がほとんどなくなりまして、そのために通院、買い物、3度の炊事などは全部私の担当になりました。
苦労して、拡大読書機なんかを買ってかろうじて読んでいた本などもだんだん読めなくなりまして、ここ数年は、毎日の新聞の社説、コラム、主要な記事などを1時間ほど朗読するのが私の日課になってきました。
10数年前の私自身の経験は『いい人はガンになる』というちょっとふざけた題の本にして出版しました。今度は『いい人は介護する』という続編を書こうと思っていたのですが、そのつれあいが今年の6月に死にました。
急性心不全で死んだのですが、47年間つれあった仲でした。私はいま74歳ですが、いくつになっても親しく暮らしていた人間と別れるというのは非常につらいことですよね。ただ、この10数年の私の障害者としての経験と6年ほどの介護の介護者としての経験というのは、それまでの60年間の私の人生では得られなかったような、たいへん貴重な教訓をうることができたと思います。実に貴重なものだったと思います。
その一つは、あたりまえと言えばあたりまですが、命の大切さ、かけがえのなさということでした。明日は9.11の記念日でもあります。あのあと、ニューヨークタイムスは、そこで犠牲になった人の一人ひとりの人生をたどる記事をずっと連載しました。一人ひとりにかけがえのない暮らしがあったのだということをたどったわけです。NHKも、昨日でしたが、ニューヨークで犠牲になった日本人の人々の人生をたどり、その家族の思いを伝えるドキュメンタリーを放映しました。
たしかに長年いっしょに暮らし、いっしょに働き、いっしょに喜んだり悲しんだりした仲間と別れるというのはつらいことなんですが、それがいきなり、プツっと断ち切られるというのは、どんなにつらいことであるか。私はつれあいの介護のなかで、あらためて知ったんです。
5年ほど前に、つれあいが危篤で入院することがありました。人工呼吸器をつけるために、人工的に呼吸を停止させます。植物状態になりました。医師には、このまま蘇生しないかもしれない、と言われました。そのとき思ったのですが、47年暮らしてきて、それまでの人生が「ありがとう」でもなければ、「けしからん」でもなければ、「あのときは悪かった」「すまなかった」でも、そういう言葉をまったく交わすことなしに、このままプツッと切られるのはつらいなあ、と思いました。
ありがたいことに、そのときは奇跡的に退院したんですね。その後の5年間の介護の期間というのは、実に私にはありがたい暮らしでした。2人の間でもこんなに充実した時間はなかったんじゃないかと思えるぐらいの暮らしを送ることができました。
この6月、緊急に入院して意識がなくなったんですが、ずっと枕元にいて、心電図を見続けていて、その波が平らになってしまうまで、そばにいることができたんですね。これが人間としての死に方、別れ方の、当然のありようではないかと思いました。そういう死に目にも会えないで、プツッと断ち切られる犠牲者の家族はどんなにつらかったろうなというような思いをします。
しかし、それの報復と称して、アフガニスタンで、あるいはイラクでは、数千人、数万人という単位で、生きている人間と生きている人間の間を断ち切るということが毎日のように繰り返されているわけです。しかも人為的に繰り返されています。いかにそれが非人道的で、非人間的なことか。あたりまえに考えれてみれば、そんなことわかるだろうと言われると思うんですけれど、あらためて私は、それをしみじみと感じることができました。
戦争や内乱などで殺された数万の人々一人ひとりにもそれぞれの人生の哀歓というものは非常に重くあったにちがいないと思います。障害者・患者、あるいは介護者というのは、そういう命の大切さを痛切に感じている人間たちであればこそ、それゆえに戦争とその準備というものに対しては、あくまでも強く反対できるのだと、私は思います。
憲法の前文と9条というのは、戦争のない社会をつくるために私たちが手にした非常に大切な宝だと私は信じています。できることは限られてきてはいるんですけれど、条件の許すかぎりは、デモなどにもついて歩いています。
つれあいとは、50年前の砂川基地反対闘争以来、いっしょにいろんな運動をやってきました。彼女が最後に加わったのは、5月3日の意見広告運動に私といっしょに名を連ねたことです。その分も引き受けて、なんとか動ける間は、反戦と9条を変えさせないために、できることをやっていきたいと思います。
<司会・薗部英夫>個人的な話で恐縮ですが、私は30年前、予備校で吉川先生の英語を受講していました。今日30年ぶりにお会いしたのですが、頭のあたりは全然変わらないのですが、眉毛に少し白いものがある感じでしょうか。変わらずお元気でたいへん勇気をいただきました。
吉川先生の個人ページ http://www.jca.apc.org/~yyoffice/ には、「障害者として、介護者として」のあじわい深いエッセイもありますので、ぜひご参照ください。
■吉本哲夫さん
今年戦後60年という話題がたくさん出てきます。私は敗戦の年は15歳でした。戦前は熊本におりまして、8月9日の長崎の原爆を、私は焼けてしまった学校の校庭から見ていました。びっくりしました。なんだろうと、仲間とみんなで話し合いましたが、そんなことはわかりません。後で調べましたら、同じ歳の人たちが、長崎に勤労動員で造船所に入っていたんです。同じ中学ではありませんが、その人たちが原爆で死んでいるんです。
広島の原爆には、私たちの仲間が、中学の1年生から陸軍幼年校という学校に入ってきた。その学校に入るというのはトップクラスなんですが、全部死んでしまいました。そういうことを戦後になってあらためて思い起こすような時代でした。
戦前、障害者のための施策はなに一つありませんでした。名前はちがいますが生活保護法の制度がひとつだけあって、障害者のための法制度はひとつもない。つまり、「穀潰し」というような形で障害者を表現されるような、非人間的な生活をしいられてきました。
戦後になり、私は教師になって、ろう学校に赴任して驚いたのは、親が子どもたちといっしょに学校にきて、授業を見て、子どもを連れて帰ることでした。スクールバスのない時代でした。家庭訪問しますと、びっくりするような貧しさでした。家を一生懸命建てたんだけれど、畳がひけないから、ござのようなものをひいて暮らしていたり、母子家庭は3畳あるかないかのようなところで暮らしていたり、これはたいへんな暮らしなんだなということを実感しました。
そして戦後、ずっと今日まで、日本の歴史で言えば、これほど障害者の施策がつくってこられた時代はないんです。本当にたくさんの施策をこの60年間、つくってきました。しかし、どうも足りないものがある。それはなにかと言えば、ひとつは、日本国憲法の25条が、きちんと障害者の施策のなかに徹底していない。つまり、法律ができても障害者を排除するような法律ができてしまう。また、障害者を差別することを前提にした法律ができてしまう。どの法律を見ても、「憲法の規定に沿って」というのが書いていない、前文がでてこない。前文があるのは教育基本法だけでしょうかね。生活保護法も「憲法の規定に沿って」と書いてあります。
なのに障害者の施策は、憲法規定と関係なく施策がなされてきている。私は、パッチワークだと言っているんです。要求のあるところに仕方なく法律をつくっていく。その人たちの要求だけしか出てこない。ほかの要求しなかった障害者は、法律にさえ入っていない。最たるものは、精神障害者、重度障害者です。
そういうような60年の歴史のなかで、ひとつだけ私たちが言えるのは、戦前の戦争政策でひどいめにあった障害者が、戦後、いろんな法律をつくるような状況をつくってきたのは憲法なんです。もうひとつは、戦争がなかったことが、いまの状況をつくっていく大きな素材にもなってきている。第9条があるから、自衛隊はイラクに行っていますが、イラクの戦場に行くことはできないんです。
憲法9条をきちんと守って、平和な国にしていく闘いと、25条にあるような生存権を保障していく闘いと、きちんと結びつけて運動を進めていくことが大事なのではないか。
障害者自立支援法はこれからまた国会に出ます。これをどうするかは、やはり障害者自身が憲法理念をきちっと胸にとどめて、それを運動にしていく人たちをどれだけ増やしていくのかが大事なんじゃないかと痛感しています。
平和で豊かな国になっていくには、いまの日本国憲法を守って、障害者の暮らしを守っていくような方法を、運動のなかで実現していく。そういう時代が来るんじゃないか。厳しいけれども、断固としてみんなで力を合わせてやっていこう。自立支援法を廃案にしたような力をさらに大きくしていこう、ということを、みなさんといっしょにがんばっていきたいと思っています。
<司会・福井典子>重度障害者で38歳となる重い障害をもつ長女と運動をしてきたのですが、吉本先生は当時から全然変わっておられないですね。東京で全国に先駆けて実現した養護学校全入の運動が忘れられません。あのとき先頭になって闘ってくれた吉本先生や先生方と子どもをおぶって参加した親のおもいがいっしょになって「全入」を実現できたのだなあと思いました。ありがとうございました。
会場の様子