トップページ> 2008 シンポジスト・吉川勇一さんの発言


よしかわ こんにちは。吉川です。
さて、主催者から注文を受けましたのは、戦後の反戦平和運動についてということだったんですけど、70年近い反戦運動の話を20分でというのはいくらなんでも話せないので、そのなかから2つか3つだけテーマをひろって、お話というか、問題提起をさせてもらおうと思って来ました。

お手元に、「戦後平和運動の可能性と課題」という私が去年書いた原稿があると思います。『平和人物大事典』というかなり高い厚い本がありますが、そこに載せた3ページちょっとの文章です。

冒頭に、哲学者で九条の会の呼びかけ人の一人である鶴見俊輔さんの言葉を引用しました。『反戦と平和』という本を持ってきたんですが、それは今から40年前、1968年の夏に京都で、私たちが開いた「反戦と変革のための国際会議」という会合の記録です。その会合での鶴見俊輔さんの言葉で、全文は長いんですけれど、その一部を少しくわしく紹介させてもらうところから話を始めます。

「1945年8月15日の敗戦をさかいに、日本ではさまざまな社会変革が起こりました。戦争中の軍国主義から戦後の平和主義に、それから、戦争中の国家至上主義から戦後の民主主義へというふうなタイプのさまざまな変革が実際におこったわけです。しかしその変化は、アメリカ占領軍によって強制されたものであるとはいえ、戦時中と同じ主体をもって行われた。同じ官僚、同じ資本家、同じ新聞、同じ教師、それから同じ宗教家が、この変化を進めたわけです。そのことが、非常に奇妙なことだと感じられるようになったのが、つい最近のことだったと思われるのです」

このつい最近というのは1968年の時点ですから、今から40年ぐらい前の話になりますけれども。

「戦争責任の自覚と追求は、単なる人間主義というものを行動する人間主義に変えさせます。この戦争責任の自覚と追求ということがありますと、戦争で犠牲者がでてかわいそうだというふうな感傷の上に立つ人間主義とちがって、ここにはある種の社会構造の認識が現れる。権力を持っている者は誰か、戦争を進めている者は誰か、その構造についての認識が現れてくる。・・・日本の場合に、1945年の敗戦当時、政府は自らの戦争責任を自分の手で追究するということなしに、一億総懺悔ということを唱えて逃げてしまったわけです。そういう自らの戦争責任追究の手続きを欠いたまま、平和主義、民主主義への転換が行われた。この戦争責任の自覚と追究抜きの社会変革は、悪い影響を、戦後のわれわれに及ぼしたと思うのです」

長い発言はまだ続くのですが、40年前に行われたこの指摘は、かなり大事だと思うんですね。
「つい最近になってようやくそのことが変だと思われはじめた」と鶴見さんは言っています。その「つい最近になって」というのは40年前40年前ですが、実際には1965年から70年代初期までかけて行われたベトナム反戦の運動の時期のことでした。

ベトナム反戦運動ではさまざまな運動体が生まれたのですが、その市民グループのひとつに、「ベトナムに平和を!市民連合」、省略してベ平連というグループがありました。その代表者は、昨年亡くなられた、やはり九条の会の呼びかけ人の1人であった作家の小田実さんです。

ベ平連は1965年に結成され、その1年後に東京で、「ベトナムに平和を!日米市民会議」という二国間の会合を開きました。アメリカからたくさんの代表を招いて議論をする機会があったんですが、その日米市民会議の冒頭で小田実さんがやった「被害者にして加害者、加害者にして被害者」という有名な問題提起があるんです。これは、「被害者両向きの矢印、そして加害者」論なのです。 つまり、「被害者⇔加害者論」なのです。
それまで反戦運動では、日本の加害者性、あるいは戦争責任を、運動の中で問題にすることが非常に弱かったのです。ほとんどなかったと言ってもいいかと思うんですね。

それまでの大衆運動は、1954年の夏から始まる原水爆禁止の国民運動、あるいは数十万の人が毎日国会をとり囲むという1960年の安保闘争など大きな闘争がありましたけれど、いずれも15年戦争でたいへんな被害を受けた日本人が、もうそれを2度と繰り返したくないという強い要求にもとづいたものだったわけですね。そこでは、戦争責任の追求、自覚というものがとても弱かったと思います。被害と加害の問題がひとつとして自覚されなければならないという指摘は、私は1966年の小田実さんの提起が戦後の日本の歴史の中で初めてだったと思います。

会場のようす
日本の反戦運動では、さまざまな市民運動にその問題提起が大きな影響を与えて、第3世界への加害責任、日本の中におけるマイノリティの問題、女性や障害者に対する差別の問題、社会の底辺につく人々との連帯の問題、そういうことが反戦平和の運動と結びついて展開されるようになりました。それも1970年代の初期以降のことですね。

ちょうど並行して同じ時期から発展していく水俣に代表される公害反対の市民運動がありますけれど、ベトナム反戦運動と公害反対の大きな大衆運動の展開は、1940年代後半から50年代にかけての反戦平和運動とは、かなり大きなちがいをもちました。

それ以前の運動というのは、大組織主導型と言っていいでしょうか。特に60年安保闘争はそうでしたし、原水爆禁止運動も(初期は別として)総評、社会党、共産党といった大きな組織の方針ぬきにしては考えられない運動でした。

しかし、60年代後半から70年代にかけては、大組織から自立した個人の自主的な連合体としての運動が普及し発展してきた。この違いは非常に大きなことだったと思います。60年代後半から70年代にかけてあった戦後の運動の転換は、もう1回自覚しなおした方がいいんじゃないのかなと私は思っています。それが一つめの問題提起です。

ただ、ここ数年ちょっと困ったなあと感じているのは、戦争責任の問題だとか、国内におけるマイノリティや差別や、そういう問題は大衆運動の中ではあまり指摘しない方がいいという意見が、運動の中で現れはじめていることです。そういうことを指摘すれば、運動の幅が狭くなる。運動を大衆化させるためには、被害の面を強調して、戦争なんかたいへんだ、こんな被害を受けるんだというところを強調した方がいい。差別などの問題はなくはないんだけれど、それは大衆運動としての反戦運動の中ではなくて、学者や運動の指導者などリーダーシップをとっている人々が別の場で議論すればいいことで、一般の人々には提起しない方がいいというような意見が、運動の中で現れ始めたのに、私はちょっと危機感を感じています。

これは、一般の人に対するべっ視というのでしょうか、一般の人にそんなことを言ってもわかるわけがない、それは学者とリーダーシップをもった人だけが議論すればいいという、こんな二重構造を運動に持ち込むのはどうかしているというのが私の意見なんですけれど、こういう意見が出始めていることに危機感をもっています。

もうひとつは、60年代後半から70年代にかけての運動はどうであったかということについて、若い人々は知らないだけに、非常に一面的な評価が下されるんですね。

たとえば、何かと言えば激しいデモをやって、火炎瓶、鉄パイプで機動隊に向かっていき、機動隊殲滅と言いながら爆弾さえ投げる。そして最後は浅間山荘事件で自滅。この時期の運動は非常に暗い運動であってそういうものから脱却しなきゃならない、今は明るい運動でなければいけない、というような主張もあわせてでてきている。

中世というのは真っ暗けの時代で、それまであった明るい人間の文明全部を闇の中に捨ててしまって、やったのは魔女狩りだけだったみたいな、非常にゆがんだ中世観がなくはないですけれども、それそっくりの、あの頃の反戦運動はものすごく暗くて暴力的だった、これからの運動はそうであってはならないというような主張があわせて行われているわけです。

そして、非暴力が強調されます。ただその非暴力が、一部でとてもゆがんた形で提起されているように思えて心配です。
どんな風に言われるかと言うと、非暴力=無抵抗というようにおかれてしまうんですね。若い人と話していて、「ガンジーの無抵抗主義は…」なんていう言葉を聞いて、びっくり仰天することがあります。ガンジーほどイギリスの支配に対してものすごく抵抗した人はいないのに、ガンジーの無抵抗と言われるとびっくりしちゃうんですね。

よしかわさん
非暴力と無抵抗はまったくちがう概念です。しかも非暴力は非合法を排除する、つまり合法であるとおきかえる傾向があるんですね。たとえばデモなんかに行きますと、「このデモは非暴力のデモですので警察とトラブルをおこさないようにしてください」とか、「このデモは非暴力のデモですから4列縦隊を守ってください」とか言われることに驚くことがあります。

非暴力は合法であることとなんの関係もありません。場合によれば、あえて法律をやぶることが非暴力に徹することにもなることも、私は自分の経験から確信しています。

一例は脱走兵の援助です。
私たちはベトナム反戦運動の中でアメリカの反戦脱走兵を20名ほど国外に送り出しました。日米安保条約によって、日本の警察は米軍から逮捕要求があった場合に、米兵の捜索、逮捕に協力する義務があります。したがって私たちは捜索の対象になります。
しかし私たちは、日本海をこえてソ連経由でスウェーデンに脱走兵を送り出しましたし、パスポートや出入国管理局の印鑑まで偽造して、それを米兵に持たせて羽田空港からパリの飛行場まで送りだしたこともあります。

しかし私たちは、それを非暴力の反戦運動なんだと思っていましたし、あえて処罰をも覚悟して市民運動としてやりました。非暴力ということと合法ということは何の関係もない。場合によれば、あえて非合法をやらざるをえない場合もあるということを強調しておきたいと思います。

さて、安倍政権ほどではないにせよ、戦前へ日本の現在を直結させて戻そうという動きは、依然として伏流水のように続いています。自衛隊をいつでも自由に海外に派兵できる法律も、間近な次の選挙の次の国会ででてくるかどうか危険ですし、再来年の5月に国民投票法の改悪が施行されるまでもう2年を割りました。施行されると衆議院、参議院それぞれの議員の3分の2以上の議決があれば「憲法改正」が行われることになります。そういう最後のギリギリの時期が近づいている今、9条を守る運動、九条の会の役割がますます重要になってきていると思います。

それともうひとつ。9条と25条の関係がこれほど結びついたこともないんじゃないでしょうか。今日の集会のタイトルのとおり、平和の問題と人権の問題は、ますますひとつのものになってきています。9条だけを切り離して議論することはありえない。ありえないというか、うまくないんじゃないか。

これもひとつの主張なんですけれど、幅を広げるために憲法9条以外のことはあんまり言わない方がいいという考え方があります。たとえば、第1条の天皇制をどうするかを持ち出せば意見が割れるに決まっている。余計なことにはふれないで、9条を守るという1点だけで団結しなきゃいけないという主張です。私はそうじゃないと思うんですね。すべての人の一致を求めれば分裂するでしょうが、問題の提起と議論は大いにしたほうがいい。

たとえば、今ほど9条と25条との関係を問題にすべきときはないんじゃないでしょうか。
米軍の思いやり予算が5兆円、防衛費が4兆8000億。一方、毎年10年間削られていく社会保障費が2200億円。これを比べれば、ほんのちょっと、防衛費あるいは思いやり予算を削るだけでも社会保障費はお釣りが来くわけで、そこらあたりが、もっともっと議論されていいんじゃないかなと思っています。

まだ申し上げたいことはありますけれども、一応の問題提起とさせていただきます。どうもありがとうございました。(編集部の責任でまとめました)