上杉文代 「人生の旅」<1>
カルチャーショックの旅(1993年)


1993年秋、初めての北欧は夫・一男と一緒だった。
彼は数年前から難病(小脳変性症)に見舞れていた。
人見知りの強い彼がこの旅に参加できたのは、前年全障研大会が和歌山であり、我が家の物置が急拠準備事務所になったからである。
彼自身もろう学校に在職中に欧米の教育視察団に加わったことがあり、見残した北欧に未練があったのだ。

心が決ると一男は一日一万歩の散歩を目指した。
朝5時には目を醒まし、私の右肩に手を掛け、二人は薄明の団地を一周し、山裾の道を歩いた。
2月から8月まで鶯が啼いた。同じ仕事をしながら、二人が歩調を合わせ、会話を交しながら歩いたのは、初めてだった。貴重な時間である。「障害者の生活を考える北欧の旅」という心躍る目標があったからだ。
家に向って帰る時はいつも朝日が昇り始めていた。

1993年メンバー
旅の仲間は18人。車椅子の方、松葉杖の方もみな障害者運動を担う人であった。
一男も車椅子に乗った。旅の印象はすべてカルチャーショック。福祉のあり方が違う!

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私は1979年、ペレストロイカが始ろうとしているソ連を日ソ協会の方と、シベリヤからバルト海への旅をした。
雲の上から地上に舞い降りた時、立っている大地がすべて私有地でないことに感動した。
教育は大学まで無料だった。医療も無料だった。
だが、ホテルのテレビは壊れ、公衆トイレに紙がなかった。パンを買う為に並ぶ人も見た。集団で夏休みを過した子どもたちの歓声を聞いたし、通訳する大学生の日本語は素晴らしかった。
でも、北欧にはそれを越す豊かな福祉と選ぶ自由があった。資本主義の国でも福祉は創れる。私は福祉は社会主義国のものと思っていたのだ。

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デンマークでは対岸にスウェーデンが見えるヘルシンオア市(人口5万6千人)を訪れた。市の予算の58%は福祉であり、4つの地域にエリアを分けて行われていた。
訪れたのはその一つのコムーネの福祉事務所だった。
二人の若い職員(一人は女性)は生き生きと自分たちの仕事について語った。

1980年以来、福祉は国の権限から県や市に移った。大規模な施設から小規模な地域へと住まいの場が移っている。
福祉が国から地方自治体へと移ったのは、住民がどこにいても平等な尊厳ある生活を保障されるためであり、行政の援助が地域に合った形でなされ、また保護者家族との関係を強くするためである。ノーマライゼーションを進めるためである。

今最も力を入れているのは、知的障害者の住宅対策である。健常者と同じ居住形態、共同住宅、グループホーム、一戸建て、アパートなど、みな個室を持つこと、そこでの生活を援助するために、専門の教育を受けた職員を派遣する。スポーツ、文化等余暇活動の場もつくる。
個室は25平米以上が必要であり、シャワールームとキッチン(共用であっても)が保障されねばならない。
生活を援助する職員はすべて市の職員であり、給料は県と市が折半する。市にはグループホームが4つあり、さらに半年か一年に一か所ずつ建てていく、という。

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知的障害者のデイセンター「クロンボーフス」を訪れた。
そこは共同住宅であり、百年前は大規模(1500人収容)の施設で隔離されていた。
いまは、知的障害者が、小規模(24人)で住み、教育を受けた専門家たちの支援を受け、コミュニケーションの内容が手厚く追求されていた。

郊外に住む脊髄損傷の男性の家庭も訪れた。
彼は公務員だったが空港で事故のため障害者となり、車椅子生活で11年になる。
妻も内部障害で早期年金を受け、14歳の娘も脳性マヒで知的障害児の養護学校の生徒だった。

まず家の広さに驚いた。
中庭を挟んで広い居間に暖炉があり、庭にプールもあった。
ローンで買った家を機能的に改造し、生活を快適にしている。改造費は市から出る。彼の社会的活動はスポーツクラブの会長。彼は交通事故等の障害者団体に所属し、会員5千の中央執行委員や支部活動に忙しい。会には弁護士、PT、ソーシャルワーカーが配置され医療相談、研修セミナー、保養所の管理運営、運転免許取得のアドバイスをしている。聞けば聞くほど安定した生活である。

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スウェーデンのヨーテポリ市(人口47万)の都市で出会ったものも凄かった。
地上7階地下1階建ての障害者会館の館長も事務局長も肢体障害者であった。
彼等はヘルパーを雇う費用を支給され、自分の選んだヘルパーを雇用していた。
館長は障害者連合の70年の歴史と運動、現在の課題を語り、
事務局長は32歳、社会福祉士の資格を持ち、自治体や社会保険事務所を廻って、個人的な介護の必要を話したり交渉したりしている。来年度は自分に合ったヘルパーを自分で雇う事を制度化させるという。

わが国では1979年ようやく養護学校の義務制が実現したばかり。
成人障害者の生活は行政の視野に入らず、人口3万の街を一人の保健婦が抱えていた。
この北欧の街では専門職員が担当地域を廻り、障害者のベッドの高さから車椅子の調子まで、チェックされているのである。「ノーマライゼーションとはこういう事なのだ」と語っていた。

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とにかくデンマーク、スウェーデンで見たもの聞いたものすべてが眼から鱗であり、特に最後の夜、ストックホルム大学の訓覇法子さん(現在日本福祉大学教授)のレクチャーに圧倒された。

民主主義の国スウェーデンでは連帯の思想が福祉を支えている。福祉は政治の目的である。権利としての障害者問題を障害者自身が提起するようになってきている。選択できる社会環境づくりを進めているということであった。

圧倒されながらも、私たち全障研、障全協、共作連の目標にも通じていると思った。
どこが違うのか、それは「よりよきものをみんなに、障害者に」という思想を行政のものにさせる程にこの思想が拡がっていないからなのだ。
 補助器具センター
デンマークの補助器具センターでは無償で借りられる介護器具が無数にあった。
でも帰りに成田空港でサービスされた車椅子も新しく乗り心地がよかった。日本にだって技術はある。金もある。それが障害者のために役立ってないだけだ。

一男は帰国して「麦の郷」のニュースに「デンマーク、スウェーデン裏窓のぞき」を連載した。みんなで旅の記録すべてを一冊にまとめた。それは今も「新しく」、多くの問題提起をしている。

 小学校にて
 ▲ヘルシンオア市の小学校を訪問
   
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