夜明けを待ちながら(6)
愛国者たち






 11月11日の朝、わたしは広島・平和公園にいる。全障研の17回目の発達保障講座が開催されているのだ。

 はじめてヒロシマを訪れたのは大学生のとき。能登半島の突端から平和行進し、夜行列車を乗り継いで、原水爆禁止統一世界大会に参加した。1977年の夏のことだ。真っ赤な夾竹桃と光を反射させる白い土が印象的だった。

「ちちをかえせ ははをかえせ」ではじまる峠三吉原爆詩集の碑。
8時15分。原爆が炸裂した時間。静かなチャイムが平和公園に響いた。

 許されない9月のテロがあり、そしてアメリカの報復戦争がはじまったのを、今回の旅の途中、デンマーク・オーフスで知った。
 あれからアフガンでの戦争は泥沼化し、罪のない多くの子どもたちが殺され、餓え苦しんでいる。そこに日本は自衛隊を派兵するのだ。

  にんげんの にんげんのよのあるかぎり 
  くずれぬへいわを
  へいわをかえせ
峠三吉の原爆の碑


 「デンマーク人であることを誇りに思う」
 わたしはその言葉を3人から聞いた。

 その一人。ステファン・イエンセン。彼は空軍に勤めていたが、事故で脊髄損傷となり下半身が自由に動かなくなった。20年ほど前のことだ。

 今は電動車いすを使いながら、スウェーデンの車いすメーカーのデンマーク支社でコンサルタントをしている。脊損連合の役員もしているそうだ。

 コペンハーゲンには改造したワゴン車で高速を使って35分くらい。毎日通勤している。
 車の自己負担は日本円で約200万円(車の本体部分)、車いすのまま運転できるための改造費300万円は公費負担だ。免許証は、改造車限定版で公布される。車を変えれば、あらたな講習が必要で、試験も受けるのだという。

 じつは、8年前に、ステファンの家を訪ねたことがある。プールもあった広い家だったが、「娘ももうすぐ自立するし、夫婦二人でずっと住めるコンパクトな家がいい」とオーダメイドで新築したそうだ。
 彼は、パーソナルヘルパーを雇うほどの「要介護」ではない(と言う)。朝のベットからの起床は公的ヘルパーにお願いしているがそれ以外の公的支援は受けていない(らしい)。

 ステファン曰く
「妻のスーザンは私をいろいろささえてくれているが、私は食事をいつもつくっている」。「妻がいないとすれば、たしかに一人暮らしのためにはパーソナルヘルパーが必要だろう。しかし、妻は週30時間のフルタイム就労で、車のディラーをしている。土曜日と夕方はいっしょに過ごす時間を作っているが普通の夫婦よりも濃密な時間をすごしているとおもっている」。

 ステファンは軍時代の事故年金に加えて、今車いす会社で働いている収入がある(会社の収入はとんでもなく多くなければ年金が減らされることもないそうだ)。

 事故で障害をおってしまったときは、チクショー!クソー!とおもった。まさかこんなたいへんなことになるとはおもわなかったとも。でも、「デンマーク人でよかった」と正直思ったそうだ。この国ならば生きていける。

           **

 ステファンの妻・スザンヌ。
 彼女の息子は自立し、いま婚約者がいると写真を見せてくれた。娘のアーニヤは23歳。知的障害があるため、特別幼稚園から特別学校、10年の義務教育後、訓練学校を出てから地域の作業所に自宅から通っているが、今は作業所の休暇をとって国民学校に学んでいる。近くのグループホームの空きをまっているという。

 前の夫との間にアーニャがうまれたとき、彼女は、しょうがない、ベストをつくすしかない、とおもったが夫はそれが認められなくて3人から去っていった。

 でも、子育てしていると「こんな子は死んだ方がいい」とおもったことも、口にだしていったこともある。そういう自分がたまらなく嫌だった。でも同じような境遇の親たちと話すと、「そう思うのは私だけでないんだ」と思えて、少しがんばれるかなあと、、、

 1978年ころの話だが、当時、まだまだ世間の目は障害者に偏見があって、それでも住んでいたのが田舎だったので、周りの人たちはほとんど知り合いで、よかったのかもしれない。彼女は、極力アンニャをつれて街に出ていった。ステファンと出会ったのはその後のことだそうだ。

 娘の世話のため仕事時間を短縮していたこともあったが(その際の給料減額分は公費で保障)、子どもが成人したので今はフルタイム労働に戻っている。

 アンニャも大人になった。障害者年金ももらっている。セックスについては、いまの彼女には子育ての力がないのだから避妊をすすめているそうだ。それは親のしつけだとおもっていると言っていた。

 この障害者の母=スザンヌ・イエンセン曰く、「福祉制度も含めて、デンマークでよかったなあと思った」。
ステファンさん夫妻
ステファンさんとスザンヌさん夫妻

          *

 ミゼルファート市で高齢者施設の責任者をしているゲオ・トマセン(市の元老人障害者課長)は、市の福祉についてレクチャーしてくれた。

・1950〜60年 大きな施設に障害者は入 っていた。障害は人間の能力が欠けているの だから守ってやろうと一つのと ころに集め たそうだ。
・ノーマリゼーション思想の広がり、「隔離」す るのではなく、地域社会で同じような生活を すべきだ
・1970年〜
 障害にあわせて、そのままで社会生活ができ るようにまわりを変える動きへ
 「ソリタリティ」の思想=自分自身の直接の 問題ではないが協力する=一人の問題にしな い。税金からそういうささえをしていくこと の合意。公のものはほとんどが無料に
障害があってもなくても、おなじように人生 を生きていく権利がある
・障害をもった人が手をつないで「協会」をつ くる。個人の問題とせず、解決の責任は社会、 政治に求めた

 ゲオは44歳。3人の息子がいる。レクチャー後の交流会でワインをしこたま飲んだ彼を車で迎えに来てくれる妻はミゼルファートの銀行員だという。

 顔のだいぶ赤くなった彼に聞いた。
「あなたはデンマークの何を誇りに感じますか?」(ほろ酔いのわたしも日本人として何を誇りと言えるのか、自問しながら、質問したのだが、、)

 彼はウインクしてこたえた。
「わたしがデンマーク人であることだ」

 1918年、精神障害者の「座敷牢」の実情を調査した医師・呉秀三は、「わが邦10何万の精神病者は実にこの病を受けたる不幸の外に、この邦に生まれたる不幸を重ねるものというべし」と報告した。

 21世紀がはじまった現代。デンマークの人たちは、デンマークに生まれたことを幸せと言い、デンマーク人であることを誇りにおもっていると言う。

ブタのオブジェ
町中でみかけたブタのオブジェ


トップページへもどる