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出会いの嬉しさ できる喜び

  薗部英夫
    全国障害者問題研究会事務局長
    日本障害者協議会情報通信ネットワーク委員会委員長
     (JDプロジェクト編『パソコンボランティア』日本評論社,1997)


はじめての「パソボラ」

 夏だった。

 地下鉄の駅から出て、一歩奥の道に入ると閑静な住宅地が広がっていた。地図をみながら探していくと、庭木の緑の多い家から、「ピー、ガー」というパソコン通信独特の機械音が聞こえてきた。はじめて訪問するK先生のお宅だ。

 先生は全盲の大学教授だった。パソコンや音声合成装置の置かれたデスクの後の棚には『日本盲人社会史研究』などライフワークの著書や音読テープ、ビデオがぎっしり並んでいる。

 「私がパソコンをいじるようになってから、じつに技術の進歩がめざましい。以前は自分の手で論文を書くなど、夢にも思わなかったことが、今では実現しています。学生のレポートもこうした電子データで提出してもらうと、一人で読むことができるのです。私の仕事の、生活の一部になっているのがパソコンなんですね」
とK先生。主に利用されるのは電子メールとデータベース。ディスプレイに映る文字を音声合成装置で「音読」させて、パソコンを活用する。情報の電子化によって、いままでまったく見ることのできなかった「文字」が「音声」や「点字ディスプレイ」への出力で、読めるようになったのである。

 訪問してお手伝いしたのは、パソコンの裏にある拡張ボードがあとどれだけ挿入できる余裕があるか見ることと、音声合成装置のソフトと相性のいいパソコン通信用のフリーソフトの相談だった。パソコンを多少扱ったことのある者ならば、なんということはない簡単な作業だったが、あらためて、見えることと見えないことの違い、「見えない」という障害ゆえの困難さに、少しだけふれたような気がした。

 「ありがとう」といってくれたK先生の笑顔。学生の頃から一貫してK先生の研究のために音読や資料整理を献身的にされてきた奥様の出してくれた冷えたスイカ。
 このとき、なんともおいしかったスイカの味とともに私自身がとてもしあわせな気持ちになれた。こうして私の「パソボラ(パソコンボランティア)」ははじまった。


自立と社会参加への「武器」−−小さなパソコン通信の歩みから

 私は、全国障害者問題研究会(略称「全障研」、茂木俊彦委員長)に1982年から常勤職員として勤務し、85年から事務局長を務めている。全障研は、個人加盟の研究会で会員数は5000名、「障害者の権利を守り、発達を保障する」ことを目的に、1967年の結成以来、障害者や家族、関係者が対等・平等の関係で研究運動を30年間続けており、月刊誌『みんなのねがい』を2万部発行している。

 私の日常の業務は、いわば「なんでも屋」である。役員会や各種委員会の調整、全国大会や研究集会、講習会などのコーディネート、出版部運営に、財務や読者管理のためのコンピュータ操作も必須だ。90年にオフコン(オフィス・コンピュータ)の機種変更の際に、捨てられる運命にあったPC9801VMを一台入手した。CPUはV30。パソコンは10年で100倍速く、100分の1の大きさとなるといわれるが、今では信じられないくらい遅い処理スピードだった。

 これがパソコン通信ホスト局「みんなのねがいネット」(略称・ねがいネット)の初代ホストマシンとなった。パソコン通信に熱心な会員の勧めもあって、40メガバイトのハードディスクをつなぎ、通信ホスト用にはBIGmodelを使った。ホスト局のために電話回線を1回線増設し、モデムは当時としては最速の2400bpsをとりつけた。96年に厚生省の肝いりで日本障害者リハビリテーション協会のノーマネットが運用を開始したが、ねがいネットは、実に、その1000分の1の予算規模でスタートしたのである。

 周囲からは「事務局長がハマってしまった」などとささやかれたが、運営が始まると、障害を持った人たちが、またネットワークに期待を持っている人たちが、どんどんねがいネットにやってきた。脳性マヒのため言葉の不自由な人もいれば、視覚や聴覚障害、車いす利用のメンバーなど、現在の参加者は1500名を超え、障害者関連の草の根BBSでは最大規模となっている。

 孫悟空の「如意棒」やドラえもんの「どこでもドア」に似て、障害をもつ人にとって、パソコン通信やインターネットなどの電子ネットワークが、自立と社会参加への革命的な「武器」となっていることの一つの反映であろう。いままではゼロであったことが10にも100にもなる可能性が生まれたのである。時間や距離的な空間のバリアー(障壁)をこえて、在宅での勤務を含めて障害を持った人たちの、あたらしい働く場や自己実現のステージが広がっているのである。

 一方、たとえば電子会議室の「子育て」コーナーには、障害を持つ人たちの家族もつどっている。知的障害者の娘さんとの30年以上のあゆみを、毎週1回、ワープロで綴り、すでに連載が260回を越えた東京の幹子さんがいる。重度障害児のお母さんで大阪にお住まいの松田さんは、インターネットのホームページ上でも子育ての様子を紹介している。最近は養護学校高等部で生徒会長のヤングくんとそのお父さんも、子育てコーナーに加わった。青森からは自閉症の息子さんを持つりんご組合会長の「りんごっ子」さんが、秋には最高に美味しいりんごを「電直」してくれる。

 「ネットを通じて、親どおしばかりでなく、関心を持ってくださるみなさまに、細々としたようすをお伝えすることによって、さらに深く理解していただけたらいいと思います」
還暦をむかえた幹子さんの含蓄あることばである。

 こうした、ねがいネット上での交流や討論は、全障研が夏に毎年開催している全国大会の特別分科会(「パソコン・ワープロと障害者」93年第27回新潟大会より設置)で、レポートの報告や討論がされている。共同研究者の一人、加藤直樹 立命館大学教授は、電子ネットワークがもつ障害者の生活にとっての意味を、
 1. 情報獲得
 2. 内面の表現
 3. 人とのコミュニケーション
これらに寄与するものと位置づけ、発達論として、また人権論としてどのように位置づけられるかは今後の大切な研究課題であると指摘した。「発達は権利である」「発達は要求からはじまる」「発達は集団のなかで達せられる」という「発達の3原則」と同じような経過をたどって、障害者の電子ネットワークも「発達」していったのだ。


阪神淡路大震災と障害者ネット

 「ワゴン車4台で紙オムツの入った段ボール50箱をもらい、夜8時、私の学校の玄関先でワゴン車1台分の10数箱を、市内の垂水養護学校の先生に渡しました。本当は直接届けたいのですが、交通規制で許可車以外神戸市内に入れないのです」。

 1995年1月17日、「兵庫県南部地震」が発生した。阪神淡路大震災である。

 「ねがいネット」に関連するメッセージが寄せられたのは午後1時33分からである。阪神地域の全障研会員や友人たちのことを思い、テレビ放送にかじりついていた私が、こうした緊急時の放送には手話と字幕が絶対に必要だと、怒りとともに書き込んでいる。台風によるりんご被害を体験した青森の「りんごっ子」さんは、そのときの全国からの支援に恩返しするためにと激励のメッセージやりんごジュースなどを寄せてくれた。親類の安否確認のため車で現地入りしたMIKIさんは、パソコン通信上でしか知らない東京の幹子さんの親類の安否も確認してくれている。

 全障研全国事務局は、こうしたネット上の現地からの声や共作連(共同作業所全国連絡会)などの障害者支援センター、兵庫障害者協議会、教職員組合などからの速報やチラシ、各地の支援運動の様子をもとに、毎日「FAXニュース」を発行し、22号を数えた。速報やチラシの入力は、埼玉の主婦が「入力ボランティア」を申し出てくれて、その日のうちにネットに掲載された。そうした情報に接した東京や弘前、神奈川や高知でも支援活動が生まれ、ネット上の電子文字は、印刷され、FAXやチラシや職場ニュースとなって、多くの人の手から手へと広がっていったのである。

 翌日から救援活動の様子をネットに発信していた、いなみ野養護学校(兵庫県加古郡)に勤務する市位辰三さんは、「肢体不自由の養護学校で紙オムツが足りない」とのSOSを見て、支援活動に着手した。

 ねがいネットに転載された「オムツが足りない」のメッセージは、大手パソコン通信が発信元で、その夜のうちに各地のさまざまなパソコン通信に転載につぐ転載が繰り返された。そして、翌日には市位さんはじめ、全国8か所から、じつに1000枚を越える紙オムツが神戸に送られたのである。

 「助けて!」、「紙オムツが足りない!」というごくごく小さな声が、情報が、電子ネットワークによって人と人とをつなぎ、巨大なパワーを発揮させたのである。
 その年2月5日の東京は朝から雪だった。前夜まで数日、神戸、芦屋、西宮と駆け足で回り、支援活動の連絡調整をしてきた私も、池袋駅東口での支援街頭募金行動に参加した。10団体約30名の障害者団体の仲間たちが街頭に立ったが、嬉しかったのは「パソコン通信でこの行動があるのを知りました」「ネットを見ていると、なにか私も手伝いたいと」と数名が参加してくれたことだった。


小さな願いが「みんなのねがい」に

 国立療養所富山病院は、立山連峰の麓、最近インターネットの村として全国的に注目を集めている人口2000人の村・富山県山田村の入口近くにある。

 「僕たちは小さい頃から、療養所のいずみ病棟にいます。今は42名がいます。そのうち、手紙のやりとりができる人は8人います。ある人は野球が好きで、ある人は詩を書いています。歌を聴いている人もいます。みんないい人ばかりです。 がいち」。

 重症心身障害児(者)病棟の看護助手だった「カラム」さんが、「がいち」さんのワープロでタイプされた文章を、ねがいネットに代理で転載しはじめてから5年ほどになるだろうか。ねがいネット常連のがいちさんは、昭和39年生まれ。長渕剛のファンでワープロが得意だ。昭和28年生まれの「RUN」さんは詩をつくるのが好きだ。ここ数年、東京の養護学校の教師や生徒などとの「電子文通」のような交流がされていたが、最近、新しい動きが生まれている。

 「あさがおの花はいつも太陽に向かって咲いているから僕は好きです」というRUNさんだが、発表された「あさがお」や「とんぼ」の素朴な詩に、「遅れてきた団塊の世代」の栃木県足利市に住む「ムーミン」さんや埼玉県坂戸市の「ゑまのん」さんが曲をつけた。97年に東京で開かれる夏の全障研大会で全国のみんなに披露するのだという。この譜面は録音したテープとともにいずみ病棟に送られたが、併設された看護学校の1年生がピアノでも演奏してくれたそうだ。

 電子ネットワークだからこそ簡単に発表できた一遍の詩。ネットでつながるそれを受けとめた人たち。それらが重なりあって素敵な歌が生まれ、譜面となって、未来の看護婦さんたちがピアノを奏でてくれる。

 人と人とをつなぐネットワークは、小さなつぶやきや、願いを、共感を媒体にして、けっして小さくない、「みんなのねがい」へと変えていけるのである。


ネットへの大きな期待

 94年には、こうした価値あることをもっと広げようと、みんなのねがいネット編で『障害者のパソコン・ワープロ通信入門』(全障研出版部)を発行した。視覚障害者へのサービスとして本の内容をすべてテキスト形式に収めたフロッピー版を作り、希望者に配布した。

 秋葉原の大規模パソコン店の書籍フロアに20冊置いてもらったところ、1週間で全部売れてしまった。これはほんとうに嬉しかった。2日おきぐらいにはネット上で「秋葉原の残部はあと何部」などの情報も、だれかれなく寄せられたものだ。

 そして、この本の反響は予想もしなかったあらたな展開を生んだ。この本を読んだ人から全障研の事務所に相談の電話が殺到する。「どうしたら簡単に通信できるか」「買うにはどのメーカーのどの機種が有利か」「パソコンを買ってまだ箱に入ったままだがどうしたらいい?」など内容はさまざまだった。電話はこちらの都合にお構いなしにかかってくる。たとえば電子メールならば、こちらの都合のよいときに読んで返信すればいいのだが、電話は違う。この仕事をやりきろうと集中しているときにも電話は鳴る。相談のなかには30分、1時間に及ぶ場合もある。これはひとりやふたりでは対応できることではない、と実感したものだ。

 もちろん、私はパソコンの専門家ではない。しかし、ネットで「こんなことで困っている人がいる」と投げかけると、私よりもパソコンに詳しいメンバーたちがアドバイスをくれたり、援助してくれた。不思議なことに「助けて」と求める方がネットは盛り上がったものだ。その延長線上でネットのメンバーが困っているメンバーのお宅を訪ねて対応する、いわば「パソボラ」の原型が必要に応じて生まれてきた。


ネットで動き始めた障害者運動−−ネットワークのネットワーク化を


 日本障害者協議会(略称JD)は、1981年の国際障害者年の成功を目指し、各種の障害者団体が大同団結して発足した日本推進協議会が前身で、現在、全障研含め70団体が加盟している。97年は、「アジア・太平洋障害者の10年」の中間年であるが、JD、日本身体障害者団体連合会(日身連)、日本障害者リハビリテーション協会(リハ協)、全国社会福祉協議会(全社協)の4団体が、「新・障害者の10年推進会議」をつくっている。

 93年の秋、JD理事会は、調一興代表の「この分野は今後ますます重要性を増すもの」との決断で「情報通信ネットワーク特別委員会」(略称JDプロジェクト。当時は総務委員会内の小委員会)の設置を決めたのである。日本の障害者団体がこうしたテーマでプロジェクトを起こしたことは画期的なことであった。以来、平均年齢三十歳台の、障害者団体としては比較的若い世代の特別委員会メンバーは、草の根BBSの実態調査やネットワーク構想の検討を行い、95年には「障害者の情報通信ネットワーク提言95」をまとめた。また、郵政省の「高齢者・身体障害者の社会参加支援のための情報通信の在り方に関する調査研究会(バリアフリー部会)」(95年度)、「高齢者・障害者の情報通信の利活用の推進に関する調査研究会」(96年度)に委員を派遣し、事例の紹介やネットワークを活用している立場から問題提起を積極的に行った。

 そして、阪神大震災とその支援活動のなかでパソコン通信やインターネットの社会的認知の急速な高まりを背景にして、個性的で価値ある情報とコミュニケーションの宝庫といえる草の根BBSを大切にし、その結びつきを強めながら有益な情報を交流しようというとりくみを展開したのである。

 まず、BBS運営に携わる人たちの自由な懇談の場を設けた。スペシャルゲストを囲んで、ときどきの最新情報やそれぞれのネットワークの活動や経験交流などを行った。これは「障害者関係BBS懇談会」の名称で97年七夕までに7回開かれている。こうした人と人との直接の交流がその後のネットワーク化に、非常に大きな役割をはたしているようにおもえる。

 さらに「ネットBBS」と呼ぶシステムをスタートさせた。これは、インターネットのメーリングリストを活用し、交流したい情報を電子メールで指定のアドレスに送信すると、登録しているBBS運営者など全員に同じメールが配送され、それをBBS運営者がそれぞれのBBSのコーナーに転載するシンプルなしくみである。このネットは、〈ネットワーク杉並ここと〉、〈夢の扉〉、〈トーコロBBS〉、〈稲城ハートフルネット〉、〈ピアネット〉、〈埼玉ふれあいネット〉、〈みんなのねがいネット〉など15の草の根BBSばかりでなく、NIFTY-Serve「障害者フォーラム」、People「福祉工作クラブ」など大手商用ネットともつながり、約1万名が各草の根BBSの情報を共有することになった。このつながりがパソボラにおいても決定的な意味をもつことになる。

 連携の基礎となるインターネットは、VCOM(金子郁容慶応大学教授の研究室による、ボランティア情報の共有など電子ネットワークを活用しての実験プロジェクト)との共同研究として、いくつかのメーリングリストやホームページが運営されている。


メーカーとユーザー、そしてエンジニアとの連携
−−People福祉工作クラブの「ぱそボラ」


 「ネットBBS」が開始されたのと同じころ、障害者運動としてネットワークの輪をもっと広げたいと考えていたJDプロジェクトと、テクノロジーと福祉との連携をはかろうとしていていた日本IBMの社内サークルとが出会った。こうして94年4月にスタートした大手商用ネットPeopleのなかの「福祉工作クラブ」は日本IBMの社内サークル・「福祉工作クラブ」の中心メンバー2名とJDプロジェクトメンバー2名、さらにリハエンジニアなど2名がプロデューサー集団を作って運営を始めた。

 その後、94年9月にコーナー構成をリニューアルした際に、最大の目玉にしたのが「ぱそボラねっとわーく」の創設だった。どこかにパソコンで困っている障害者がいたら、その様子を「ぱそボラ」コーナーに情報としてアップする。訪問した人が、その様子をコーナーに書き込み、必要な場合は、リハエンジニアなど専門家のアドバイスを受けたりする、というシンプルなルールである。

 この方法は、「パソコンボランティア・カンファレンス97」後の「PSV(パソコンボランティア)メーリングリスト」の運営にも継承されている。この方法を取ることにより、SOSの元情報と支援活動の記録が残り、第三者のアドバイスが受けられやすいという電子ネットワークのメリットが活かされているのである。

 また、福祉工作クラブでは、「ぱそボラ通信」というニューズレターも発行し、電子メールが送信できない人むけに「ぱそボラfax」を設置している。


長谷川さんとの遠距離ボランティア−−もっと地域に支援の輪を

 長谷川清治さんから事務所に電話があったのは「ぱそボラ」が軌道に乗りかけた94年の冬頃だった。脳性マヒのため、筋肉の緊張がたいへんきつく、言っていることの意味を5回くらい聞き返してもほとんどわからない。ようやく、「ワープロで電子メールを出したいのだが、うまく通信できなくてこまっている」ことがわかった。

 「県庁所在地の隣町」「ワープロは使いこなしている」この2つの条件ならば、すぐに問題解決できると思いつつ、ねがいネットと福祉工作クラブに、ほぼ同様のSOSの書き込みをした。ところが、「私が行きましょう」と手をあげる人がだれもいない。

 公的な機関はないかと探したが、福井にはリハビリテーションセンターも見つからない。私の高校時代の同級生が、たしか福井で体育の教官をしていたが、などとあらゆるつながりをたどってみたが、誰も見つからない。

 何日かたった頃、〈ねがいネット〉の「ゑまのん」さんの発言の「人が行けないのだから機械に来てもらえばいい」「宅配便でそのワープロを東京まで、ソフトとともに送ってもらおう」がヒントになり、福祉工作クラブのPC-MIKeさんから「それならば、そのワープロは古い機種だけど社内にはありそうなので、ソフトだけを送ってもらえれば、なんとかなるかもしれない」と嬉しいレスがついた。

 「使用説明書は難解で、ワープロ専用機の通信ソフトはみごとなまでにわかりづらかった。電話で何度かやりとりしたが正直いってたいへんでした。それでも何度か話をしているうちに(長谷川さんと)「普通」に会話できている自分に気づき、嬉しかったです」と後にPC-Mikeさんは感想をのべている。

 私は、翌年の5月の連休に富山に帰省した際、北陸道を南下して福井インター近くの長谷川さんのお宅を訪ねた。九頭竜川のほとり、古い織物工場が続くお宅で、耳をすますと機織りの音が聞こえてくる。長谷川さんは40歳を越え、脳性マヒのため身体の硬直もきつく、右手の人差し指一本で、キーボードを操作していた。プラスチックのキーガード(キーボードカバー)を使っていたが、、不随意運動があるためか、うっすらと血がにじんでいた。

 私は、なにをするわけでもなく、ベッドサイドでのおしゃべりを2時間ほどして、お母さんからは、たくさんのお土産をいただいて帰ってきた。

 その後、長谷川さんから、タイプするだけでも相当の日数を費やしたにちがいない電子メールが届いた。地域の会合で講演をした際の講演内容だった。

 「寝たきりの私でも、人の役にたつことと生きがいを与えてくれたのがワープロと通信だった。もっと地域に気軽に相談できる人がいたらいいのに」。
 ずっしりと重い電子メールだった。


地域で豊かに生きるための条件

 93年秋に車いすメンバー数名を含めて18人で北欧を訪ねたことがある。スウェーデンのイエテボリの街でお宅を訪問させてもらったブリッタは当時56歳。若々しい感じの素敵な女性だった。製薬会社に勤めていたが82年に多発性硬化症を発病、85年に自分の力だけでは動けなくなった。スウェーデンは現在、障害者自身がパーソナルアシスタント(個人専用の援助者)を雇う権利を制度化したが、一日に5、6回のヘルパーの訪問によって、一人で自宅に暮らしていた(最近の様子はブリッタ・ヨハニソン著、友子ハンソン訳『私にもできる−−障害があっても自立した生活』〔萌文社〕に詳しい)。

 驚かされたのは、週10時間は愛用のパソコンで製薬会社関係の在庫管理のデータベースの仕事をしていたことだった。そして、彼女の言葉である。

 「ハンディがあっても、自分は社会のなかで必要とされている。だれもが社会に何かできることがあるはずです」。
この人間の尊厳ともいえるプライドが、ブリッタを輝かせているようだった。

 横浜市総合リハビリテーションセンターの「リハエンジニア」・畠山卓朗さんにお話をうかがったことがある。

 日本で横浜市だけで先駆的に取り組んでいる「リハビリテーションの出前」ともいえる「横浜方式」は、「福祉保健サービス課」に行政窓口を一本化し、グループ(医師と保健婦、ケースワーカー、PT〔理学療法士〕、OT〔作業療法士〕、必要に応じてエンジニア)で在宅訪問して、リハビリテーションのプランをつくり、総合的に支援していくシステムだ。年間600件のケースがあるという。福祉切捨ての状況下にあって、このとりくみを維持、発展させていることはたいへん大きな意味がある。

 「何回もお宅にうかがいます。信頼関係って簡単にできるもんじゃないです。保健婦からの情報でリハ機器を持って出かける。機器などいらないからとそのまま帰ることもあります。エンジニアとしての仕事の部分は1割もないかもしれない。でも、こころを通いあうためのその9割は、とても大切なもので、リハエンジニアの仕事はそのすべてをいうわけです」。

 カナダのトロントのリハビリテーションセンターには50名のエンジニアがいるそうだ。横浜は9名で同じような仕事をしている。そのうち楽になるから我慢しようって言ってきたけど、楽にならない。夢は区単位で、横浜リハが枝分かれしたような「リハサービスセンター」ができること。仮にこれらが実現したと想定して単純計算するとスタッフは横浜市で50名が必要とのことだ。

 北欧では、ゆるぎない地域福祉制度を1960年代以降、国民の要求と選択によって政治的、社会的につくりあげてきた。日本でいえば革新自治体が全国に広がった時代以降のことで、まだ40年もたっていない。

 アメリカではNPO(非営利組織)が自由な発想と柔軟な対応のできる事業体として発展しているという。その一つ「シニアネット」は全米70カ所でラーニングセンターを設けて、シニアどうしの教え合いを大切にしているそうだ。

 横浜市では、日本で唯一の在宅訪問のリハビリテーションシステムを展開し、より小さな単位での在宅サポート活動を展開している。しかし、日本の多くの障害をもつ人たちが、パソコンやネットの利用を希望しても、相談するところも、コーディネートする場もほとんどない。いま、その総合的なサポート体制づくりが、全国で求められているのである。


情報アクセス権の実質化を−−公的責任とボランティアの役割

 新潟市の隣の町に住む鈴木正男さんは20年来の友人である。私が学生の頃、学園祭の企画で講演にはるばる金沢まで来てもらったことがある。そのとき、脳性マヒによる重度の障害をもつ鈴木さんとアパートで一晩お供した。彼は、私の作った、けっしておいしいとはいえない中華風の無国籍料理を、片方の足でもりもりと食べた。片足で歯を磨き、ワープロを使った。人間てなんてすごいのだろうと率直に感動したものだ。そのときのことは今も鮮明に思い出される。

 彼は、数年前にお母さんを亡くし、自宅で一人暮らしをしている。地域の介護、福祉サービスをフルに活用しての本格的な自立生活だ。彼の当面の目標は、重度障害者に支給されるワープロでねがいネットに接続すること。そしてインターネットで障害者運動に役立つ資料を収集することだ。しかし、足の指一本での操作には、今後山ほどの困難があるだろう。

 高知の松本誠司さんは30歳になったばかりの好青年だ。脳性マヒによる障害は右手や右足などに現れているが、改造した三輪自転車とPHSを片手に、彼は、昼は高知市内を走りまわり、夜はパソコン通信で全国の友人と交流している。しかし、彼のパソコンは少ない年金を積み立てて買った自前のものだ。そして、身近に、障害のことがわかり、パソコンや通信のことがわかるアドバイザーがほしいという。

 国連は「障害者の機会均等化に関する基準規則」(1993年)の実施をはかるため、第一に「アクセシビリティ」を重点としてとりくんでいる。「どのような種別の障害をもつ人に対しても、政府は、情報とコミニケーションを提供するための方策を開始すべきである」という基準規則の具体化である。

 障害を持つ人たちを含め、だれもが必要な情報にアクセスし、情報を発表したり、交流することができること。その権利は知的な障害をもつ人々を含め、文字どおりすべての人たちに保障されなればならない。通信機器や操作方法にしても、障害者に使いやすいモノは誰もが使いやすいモノなのだ。そして、障害者にとってよい社会は、万人のためにもよい社会となる。

 このテーゼがJDプロジェクトの根本であり、この考え方は、先の郵政省の調査委員会報告にも反映され、情報アクセスは「新しい基本的人権」と述べられた(郵政省通信政策局情報企画課『共生型情報社会の展望』NTT出版)。

 歴史は前へ、前へと進んでいる。しかし、いうまでもなく、「権利」は条文や報告書に書き込まれただけでは意味をなさない。それを要求として、政策として具体化しないかぎり、実質的な権利の保障にはならないからだ。権利は与えられるものではなく、具体的に獲得していくものである。

 日本障害者協議会は、「情報保障に関する政策委員会(委員長 清原慶子)」を設けて、総合的な政策提言を検討している。また、同時に次のような要請を各省に行っている。まさに情報保障は現代の基本的人権であるからである。

1. 日常生活用具にコミュニケーション福祉機器を−−現在は重度障害者に対してワープロ給付があるだけである。「ワープロ」という概念ではなく「コミュニケーション福祉機器」として、パソコンやソフト、モデムなど情報通信機能も含めた助成制度の改善が必要である。

2. 福祉事務所の窓口担当者の研修をはじめ、公的なマンパワーの育成−−リハビリテーションセンターや補助器具センターなどを拠点とした地域単位での総合的な支援システムづくり。

3. 地域のパソコンボランティアのネットワーク化の支援−−学校、公民館、郵便局など地域の拠点となる公的施設の講習会場等への提供、機器の貸出など。

 いま、求められているのは「福祉機器センター」の動きなどに見られる、儲かる機器の巨大なショウルーム展示だけで終わるのではなく、地域に密着した、在宅の訪問を含めた応用のきく、質の高いサポートシステムである。

 このように、公的責任で、行政として推進すべき課題を明らかにしながら、一方で「ボランティア」としての「パソボラ」はどのように位置づけることができるだろうか。


むすびにかえて

 「パソコンボランティア」にはだれもが簡単になることができる。ネットワークの向こうには、ネットにつながる多くの力持ちたちがいる。「一人ではできないことも、だれかが知恵を貸してくれる」「だれかができないことでも、ひょっとすると自分にはできるかもしれない」。そうした小さな力がむすばれることで、新しい力が生まれる。

 ただ、障害は、その程度や種別をはじめ、障害認識の違いなど、人の数ほどに違い、それによりサポート方法も変わってくる。その「違いがわかる」人であってほしい。それでいて、同時代を共に生きている人として、障害があろうがなかろうが、「同じ」だということを共感してほしい。

 そして、パソコンボランティアが、「ボラする人」「される人」という一方的な関係だけでなく、お互いの、こころの扉にふれるような、すてきな人生の出会いの場であってほしいと願う。

 その出会いと、お互いを理解し合おうとする話し合いの一つ一つが、同時代を共に生きていく社会づくりへの、具体的な一歩となっていくものと確信している。

(そのべ・ひでお)


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