はじめに 

 本書の目的を一言で言うならば、障害のある子どもたちの教育や療育において、子どもたちを発達過程のなかにある存在としてとらえ、その認識を指導に生かすための視点を論じようとするものである。

 子どもたちは、教育や療育の対象であるが、それはけっして客体であることを意味するのではない。客体でありつつ、同時に発達の主体として発達要求をもち、自らを対象化して「こうありたい」と願っている。そして、教育や療育に対して、それを規定する社会に対して、「こうしてほしい」と訴えかけている。

 こういった願いは、残念ながら彼ら自身の言葉によって表現されることはない。しかし、聞こえてこないからと言って、その言葉の意味するところを等閑視してはならないだろう。障害の有無によらず子どもは、言葉にならない言葉で私たちに語りかけ、訴えかけて、その発達要求を実現していく道を、ともに創り出したいと願っている存在である。

 特別支援教育や療育においては、「個別の指導計画」「個別の支援計画」の作成が義務づけられ、その内容は、PDCAサイクルによって検証可能な、目に見える変化についての目標とそれに応える方法の設定が期待されるものになっている。さらに言えば、目に見えないことを目標として設定することは、意図的に排除されようとしている。

 若い教師や指導員は、志をもってその仕事につき、子どもへの深い愛情をもって働き続けたいと願っているに違いない。しかし、現実の労働においては、担当の子どもの「個別の指導計画」「個別の(教育)支援計画」を期日までに作成することに追い立てられ、かつ、目に見えて変化する機能・能力以外の目標を記載することを、管理者から戒められたりする。

 子どもはその若い指導者に対して、多くの笑顔も見せてくれるが、ときにいらだち、さまざまな行動で怒りを露わにする。「何を怒っているのだろうか」、そう考えると眠れぬ夜が長く続く。

 その問いに正直に働けばよいのではないか、私はそう考える。「子どもの願いをわかりたい」、その要求をもって働いていこうではないか、私はそう思う。

 言葉にならない言葉で語りかけてくる子どもの事実をていねいに記録し、その内面にあるものへの気づきを書き加えてみる。そして同僚にその気づきを語ってみる。自らの気づきの内容を修正しながら、書きためられていく子どもの事実を、実践記録、実践報告として書きあげ、勇気をもって研究会で報告してみる。自分のいたらなさを感じることも多いが、「子どもの願いをわかりたい」というのは、けっして孤独な思いではないことも知り、勇気づけられていく。

 本書は、子どもの事実に対して忠実に実践研究を行おうとする指導者集団に対して、その事実のなかにある子どもの発達要求を探るための手がかりでありたいと思い、書き進めた私の論集である。一つひとつが独立したものであるので内容の重複もあるが、それは私の最も強調したい事項として、ご理解願いたい。また、私の論じるところが実践の上に立つようなことはあってはならないと思う。子どもの事実に忠実な実践研究において、本書を批判的に検討していただくことができるならば、うれしいことである。
 
                            白石正久

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